神様のイメージ通りに生きる
昨日、2日目のQTでは神様が私をどんな目的のために造られたのかというビジョンを見せてくださいました そのビジョンは、私が幼少期からずっと一貫していたとある行動を説明するのに大変しっくりくるものではあったのですが 途中からその目的がすり替わってしまい本来の目的を私が見失っていることをはっきりと示されるものでもありました 長くこの日記を読んでくださっている方は神様が私に幾度となく「遊ぼう」と示されたことを記憶されているかもしれません また、この日記を毎日書くことを辞めようと思ったきっかけでもあったのですが イエスさまと子どもの姿の私が遊んでいるビジョンを見てそれを描こうとしたら イエス様が「違うよ あなたも一緒に遊んで」と描写することを制して遊びに参加するようにと促されたこともありました 遊ぼうってどういう意味だろうなぜ遊ぶのが必要なんだろうか成長の過程に必要であって遊んだ先に何かあるのかな? と、ずっと思っていたのです ですが昨日のQTで見せられたビジョンで神様が造られたこの美しい世界を神様と一緒に遊ぶ そのこと自体が神様が私に対して望まれていることであり一緒に遊ぶことこそが目的だとはっきりとわかりました 私は幼少期から 知らない人でも誰でも巻き込んで遊ぶのが得意でしたし遊びの邪魔になるものは徹底的に排除していました ですが 遊ぶこと自体が目的なんていうのは自分の働きにより評価をされたがる宗教の霊や肉の努力を貴ぶ人 それに自分が好きなことを出来ずに生きる人にとっては面白くない だから支配をしようとしてきます 支配は悪魔から来る性質です 私はそれがとにかく大嫌いで大きくなるにつれて 邪魔を排除するだけして人との遊びの中には入らなくなり一人遊びを楽しむようになりました しかし一人遊びをしていても人がついてくるのでついてくる人を守りながら遊んでいたわけです 支配をしようとしてくる人というのも実は私と一緒に遊びたい人だったりするのですが 私はそういう人を敵視すると同時に自分の人生から排除しようとしました ですがそうやって、一緒に遊ぼうと仰る神様に背を向けていたのです 私の目的は敵を排除することや敵に便乗して来る人を相手にすることではなく(それは神様がなさることであって)神様と一緒に遊ぶというシンプルなものだったのです それに気づけたのは良かったものの 壊された領域に対しての敵の攻撃は大きく昨日はいろいろあって大変疲れてしまったのですが 買い物に出ると神様は とても素敵な空を見せてくださったことで喜びが満ち溢れ 家に帰ってからは りゅうくんと出逢う場となったネットゲームをしたら疲れが吹き飛んでしまいました 本当に神様から来ているんだな と深く実感すると共に 私が遊ぶ邪魔をする人には背を向けて今後は本気で人生かけて神様と一緒に遊ぼう! と思いました