神様に守られる条件
今 ある人のメッセージを文字起こししていますが その中で こんな言葉がありました 私の召しはこれである その事で悲しむことになっても構わない だけど 私が遣えるため召された人は 私を受け入れた方がいい 神の祝福だから このことは 本当に 神様に遣える人の 心の叫びであると思います そのまま 神さまの思いだからです 先日 蘇りの奇跡のために4時間以上 祈ったという人が言っていました なくなったのは小さな子どもを持つ母親で 何で死んでしまうの?起きなさい! と 叫んだそうですが そのうち 祈ることに疲れ果ててしまい ねぇ 起きた方がいいよ?という 語りかけになってきたそうです 結局その女性は蘇ったそうですが このような話 証は他にもあります ユダヤ人は 過去 クリスチャンに迫害されました しかし近年 聖書には ユダヤ人を祝福するようにと 書かれていることが認められ 今ではクリスチャンがユダヤ人を 支援する活動が起きています ヒットラーの迫害を経験している彼等は クリスチャンに施されるなら 死んだ方がましだというぐらいに 支援を拒絶しました 支援をする人は 過去のクリスチャンの 過ちを謝罪して どうか受け取って欲しいと 頭を下げ続け 50年が過ぎて今では 支援を喜んでくれる人が出てくるまでに 関係性が回復しました 人の目に 神様がなさったのか 悪魔がしたことであるのかは見えません クリスチャンであってもそれは同じです イスカリオテのユダはイエスさまの弟子でしたが 悪魔の器となってしまいました 神様は 人が自分の意思で 敵の誘惑に負けずに神を選ぶことを 望んでおられます だから 神に頼らず誘惑に期待する人を 決して神様は守ってはくださらない 何故なら 人には自由意志を与えられており 選択の責任は人にあるからです 守ってくださいと願う人のことは守られます 誘惑と神様の声を聞き分けさせてくださいと 願う人の願いは聞かれます でも 神様に守ってくださいと言いながら 敵にも守ってくださいと願ったり 神の言うことを疑い 誘惑を信じる人を 神様は 守りきることが出来ません そうやって 敵の手を取る人が 敵に攻撃を受けたとしても 神様には何の責任もないのです むしろ 助けたくても 歯がゆい思いをされるのです 守るためには条件があるのです 敵の声に惑わされず 私に聞き従うなら 子どもと一緒に人混みの中に行くとき 離れちゃダメよ と言うのに お菓子をあげるよーという 知らないおじさんについていったら 危ない目に遭うのと同じなのです