神様の目から見た捧げ物
昨日は疲れていたので 何もせずに寝てしまい 早起きをして片付けるつもりが りゅうくんが夜のうちに 台所を片付けておいてくれたので 朝は 久々に余裕があり 聖書を読むことが出来ました 聖書は ただ読むだけなら 過去の記録を追うだけになりますが その聖句から 今神様が 何を語りたいと思われているのか というレーマの言葉を受け取ること 今 生きておられる神様と 交流をすることにこそ意味があります 今日は 神様に捧げる捧げ物について 細かく書かれていた箇所だったのですが 神様は 当然ながら物質的なものを 必要とされる方ではありません なのに何故 捧げ物をするように 示されたのかと言えば それは 和解のためであり 神様のなだめのためと書かれています 当時の人たちにとって 牛や羊はとても貴重な食物です 罪の赦しを請うために もっとも貴重なものを支払い 誠意を示すことを神様は 求められたと示されました そのとき 私は捧げられてないなぁ と一瞬思ったのですが 神様はすぐに あなたはあなた自身の 全てを捧げてくれている と示してくださいました 神様の栄光を現す器として 用いてください と 切に願うこと それこそを 神様が喜んで下さっていると 教えてくれたのです そしてりゅうくんも 読んだ聖書箇所は違いましたが 同じように 捧げ物というのは 人の目や思いにより計るのではなく 神様の目により計るものだと 示されていました 神様の愛する子のために 何かをするなら それも神様に 捧げたことになる そのことを示されたように感じました マタイの福音書25章40節 すると、王は彼らに答えて言います。 『まことに、あなたがたに告げます。 あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、 しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、 わたしにしたのです。』