内なる人を強める
少し前の話になりますが 預言セミナーがあった2週間前の礼拝で 私たちの教会のカバリングをしてくださっている カナダの預言の先生が 大変興味深いことを お話されていました 実際の礼拝メッセージは公式サイトの バックナンバーからご覧いただけます 21世紀キリスト教会 礼拝メッセージバックナンバー 有名な ダビデとゴリアテのお話です 巨人のゴリアテが一騎打ちをしようと イスラエルの兵に向かって言うと 兵士たちは恐れおののいてしまい そのまま膠着状態が何日も続いていました そこへ 羊飼いのダビデ少年がやってきます 17歳ぐらいであったと言われていますが 羊を飼う中で 彼は羊を餌とする狼や熊と闘うべく 石投げの技術を身につけていました ゴリアテを見た時 彼はその大きさを見て これなら確実に仕留められると思いました ですが 彼は石を5つ持って出ていきます 聖書トリビア的なものですが それは 私にとって とても心に響くものでした ゴリアテは 5人兄弟だったのだそうです そして残り4人も全員巨人でした ダビデは ゴリアテを殺したらもしかすると その4兄弟が襲ってくるかもしれないと踏んで 5つの石を持って行ったのだそうです 仕損じた時のための予備ではなく 1人1つで十分闘えるつもりだったのです このような態度を見る時 ともすると 傲慢 慢心であると感じる人もいるかもしれません 過剰な防具を着せようとする人もいるかもしれません (実際 ダビデは鎧を着せられました) ですが 私はこのことを思い巡らした時 「心配は罪よ!」というアイコ・ホーマン博士の 言葉が思い起こされました (「心配は罪よ!」というシンプルな真理参照) この礼拝メッセージの前後に開催された 預言セミナーの中でも 講師の先生が 神の示しに対する否定的な考え方は 全て恐れから来ていることを示唆していました 恐れを持つ人は 尤もらしい言い分で 何とか安全な場所へ留めさせようとします しかし その安全な場所というのは 私たちにとって安全なのではなく 敵にとって安全な場所なのです クリスチャンが無力であれば 安全なのは敵なのです 既に勝利された神の完全な守りに入った時 敵にとってクリスチャンは脅威になりますが その時には敵は 手も足も出ないのです 聖書で言うなら 民数記13~14章において 約束の地に偵察に行った12人のうち 10人が そこに住む人々が強そうなのを見て あの土地は悪い土地だったと悪評をたてようとしますが カレブとヨシュアだけが 良い土地であったし 主に背いて 人を恐れてはならないと言います その時 人々はどうしたでしょうか カレブとヨシュアを殺そうとしたのです ここに霊的な戦いはあるでしょうか 敵の干渉や誘惑 罪への揺動はあるでしょうか 違うのです これは霊的な戦いではなく 人の弱さ 人の思いの中での戦いなのです 雄々しくあれ 私が共にいる これは 神がヨシュアに語られた言葉ですが 聖霊を受けた全てのクリスチャンに対し 神は今 そのように語り掛けてくださいます 誘惑をしたり 嘘をつくことしか出来ない存在を恐れ 仲間割れをすることは主の民のすることではない 以前紹介しましたが 敵の前で喜び賛美をする時に 敵が同士討ちをする そういう生き方をするのが 主の民であると 聖書には書いてあるのです (第二列王記20章22-23節 過去記事は愛による解決参照) 内なる人が強められ 確信を持つことと 侮り 傲慢になることは似て非なるものです その違いはどこに現れるのでしょうか それは 結果です 侮りの心は 準備不足を引き起こし 不足に気付いた時 慌てます また心配の心は余計な防具を着せようとし かえって身動きが取れなくしてしまいます 大きすぎる鎧を着せられたダビデは こんなものを着て行ったら失敗すると 脱ぎ捨てて行ってしまいました そしてダビデは 十分に準備をして行きましたが それを全て使い切ることもなく 余裕を持って 終始平安の中でことを済ませます 準備はして行きますが 多すぎることはありません 必要は いつも十分に満たされています ただ 自分は神の後について行っているだけであり いつも平安に憩い喜ぶのです 主の平安 喜びの中に留まることは 何物にも代えがたい賜物です 全ての信じる人が 内なる人を強めて 神の平安の中で憩うことが出来ますように その時が 神の国がこの地を取る瞬間です