救済とは何からの救済なのか
今日は 朝に神様からあることを教えられました そのことは クリスチャンになってからずっと 疑問に思っていたことなので 簡単に鵜呑みにせずに より詳細に深く 1日を通して示して頂けるようにとお祈りをしました すると 起きたことは思ってもみなかった ことばかりだったのでした 神様は 私たちにご計画を持ってくださっていますが それを選択して実行するかどうかは 私たちの自由意志により決定されます 神様が どんなにご計画を用意してくださっても 受け取って実行しなければ実りはないわけです そうやって 神様がご計画されていたことが 不発に終わってしまう時 神様は それを継承する人を探す必要が出てきます 神様は 神様の召しを受ける人が 霊的攻撃や神を受け入れない人の反発 時には迫害に遭うことをよくご存じです ですから 召しを受け入れた人に対して 神様は任命をした責任を負ってくださいます それが 御国に行く約束であったり 日々の糧や望むものを与えてくださることであり 神様にしてみれば 神様のしもべを養うのは 雇い主として当然であると思ってくださっているのです 私たちは自分の意志で神様に遣えます 神様の救いを身を持って体験し 誰一人として滅びることを望まないという 神様の御心にコミット(賛同)したものが 神様のご計画の賛同者として遣えるのです 勿論 聖書にある恵みの約束を見て 恵み欲しさにご計画に賛同する人もいますし それでも良いと聖書にはきちんと書いてあります 何故なら 神様の愛により生まれ変わり 美しく造り替えられていくからです ですが 神様が求めていらっしゃるのは 神様を愛し 神様の栄光を褒めたたえて 賛美し礼拝する人々です 神様からしてみたら 親を敬わない人も 人殺しも等しく罪人ですが 罪で人を失うことは神様の御心ではありません 悔い改めて 神に立ち返って欲しいと願ってくださり 両手を広げて待ってくださっています ですが人は 親よりもお金を大事にしたり 人殺しに悔い改めとやり直しのチャンスを 与えなかったりします 考えてみてください 神様の救済というのは どこからの救済なのでしょう 罪からの救済というのは 神の御心を理解しない存在からの 救済なのではないでしょうか 裁きをする方に救われたことを信じているなら 御心を理解しない存在がどんなに 裁くようなことを言っても恐れる必要はありません 実際に裁く権威をお持ちであるのは 神様ただお一人だからです その神様が あなたを贖うと仰るのに 訴える人々の声を見て恐れ迷ったり 叩かれないようにと気を使う態度は 救済されていない者の姿です また 権限もないのに裁く言葉で人を 追いやる者どもに同調するな という 神様の御心を無視するものも等しく 救済されていない者の姿です もし クリスチャンであるにもかかわらず 人を見て恐れてしまったり 人を見て裁いたりしてしまうのであれば まず自分自身が救われる必要があるのです 救われていない人が 神様の 何を知っていると言うのでしょう 神様の御心を理解していない人が 聖書の何を教えることが出来るでしょう 神様と相思相愛になり 神様の栄光を現す器として 建てあげられることを喜ぶ人を神様は喜ばれ なぜ人を見るのか なぜ私を見てくれないのかと 神様はいつも私たちに語り掛けてくださっているのです