向き合うことに付き合う
昨日のことなのですが 物凄く久々に 何気ない風景の中にある 地の暗い部分というものを見せられました それが1つだけなら然程気にしなかったのですが 1日かけて 3組もの違うタイプの暗さを見たので これは 全く無意味じゃないぞ と感じました 尚且つ その件について祈ろうとしたら りゅうくんが屁理屈をこねて邪魔をしたので そうか この人の背後にあるものかと気付きました 言われてみれば 見かけた3組は りゅうくんの家族が持っているであろう 霊的暗さと似たものがあるのかもしれません 荒々しい態度で怒りながら独り歩く老女 生きることに希望を見いだせずにいる学生達 建物の中を びっくりするぐらいの大声で 談笑しながら足早に行く酔ったサラリーマン達 思えば昔はよく見た光景で 別に珍しいものではないかもしれません しかしその姿を見て その声を聴くだけで この人たちには祈りが必要だとわかりますし 背景にいるものが聖くないこともわかります すぐに 彼らが希望を得ることが出来るように 神様が作られた本来のいのちに 立ち返ることが出来るようにと祈りました しかしりゅうくんは その祈りを邪魔しました それは結婚直後にはよくあったことなので 過去に慣れ親しんだ暗い霊に 感化されたのだな と感じました もし 自分がきちんと救われたという 自覚があるのであれば 人のことを祈ることは容易いです ですが その救いを受け取り切らないなら 人が救われることを祈るのは難しいかもしれません 嫌だな と思うことを神様から やりなさいと示される時に 葛藤が生じます 祈りたくないな と思う時に それについて祈る人を見れば邪魔をします それは 悪霊に操られているとか そういうことではなく 感情の問題であり 本人の成長の過程です 蛇足ですが 悪霊を信じている人は悪霊の嘘を口にしますが その内容は良くも悪くも霊的であり こちらが何かをアクションするより前に 阻止しようとしてきます こちらが行動を起こすよりも前に 察知して邪魔をしてきますし 攻撃があった時に 自分の感情とは 全く関係がない怒りや恐れが投げ込まれます 得体が知れないものについては 出て行け と命令をすれば出て行きます しかし 私の行動や発言を見て 感情的になっただけの発言というのは それは 人の感情の問題であり 私に対しても何の影響もありません 勿論私も感情がありますから 不愉快に思ったりもしますが 自分のことであれば制御すればいいだけですし 制御出来ない感情は神様に頼ればいいだけです 勿論 私自身 自分の感情にどう向き合えばよいか わからないようなこともありますから 問題は その解決を神様に頼る意思が 持てるかどうかなのです 単純に どうしても許したくないと 思っているなら 神様に対して 許せるようにしてくださいとは祈りませんし 他の理由でも解決されては困るのであれば 解決を祈ることは出来ないのです イヤイヤ期の子どもが 助けの手を伸ばされると怒るようなものです 自分でやるの!というわけです 子どもの頃に良い子だったり 親が強くてイヤイヤをしきれなかった子は その感情を味わい尽くす必要があります 感情は 味わい尽くさなければ 終わらないものなのです