神を第一にすることの大切さ
そもそもクリスチャンって何だろう? (若干 他の神々って何だろう?) というお話です 今日の夜は8月末~9月生まれの人で集まってぷちお誕生会をしてきたのですが その時に ひょんなことからイエスさまを信じはしたけどイエスさまのようになるのは嫌だと主張する人はいるねー という話が出た そもそもクリスチャンというのはキリストに似た者という意味で 栄光から栄光へと作り替えられると 聖書には書いてあり みんな その過程であるわけだけど 本人の意思として そうなりたくないと 主張している人 というのも多かれ少なかれ存在することは確かです が その話をしていた時りゅうくんが押し黙っていて 神様のビジョンを見ているときこの人はいつも押し黙るのでまた何か見たんだろうなー と 思っていたら案の定 帰り道で あの話をしていたとき神様が笑顔で涙を流していた 愛を注いでいるのに拒絶されることに笑顔で悲しみの涙を流されていた と 憤っておりました 裁いちゃいけないけど文句を言いたいー と言うので その気持ちを人を裁くことに向けず神様にぶつけたら?と言いました 神様 なんでそんなこという人がいるんですかー 僕もたまに抵抗しちゃうしまだまだだけど でもなんでですかー と 投げ掛けていたら りゅうくんに対してではなく私の方に神様が答えをくださった それは 最近の神様からの語りかけに通じるものだった それは 人に自由意思を与えているからだよ 自分の意思で わたしを愛して欲しいしその愛にわたしも応える 御国においては わたしのことをより愛してくれる人をより近くに置くつもりだよ そう語られてからこのみことばが示されました ヨハネの福音書12章25節自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。マタイの福音書10章28節からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 この話をしたとき りゅうくんは神様が踊って喜んでいるビジョンを見たそうです 話終えた時 キリスト者になりたくないと 言う人は 要するに 神様のことは好きだけどそれ以上に自分を愛している ってことだよなぁと 思いました マタイの福音書22章37-39節そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 イエスさまはこのように教えられましたが(そしてこれは旧約聖書にあるわけですが) 自分の中心に イエスさま・神様を置かずに自分(我)を置いている ということです しかし 神様は全ての人を同じように造られたわけではない 黙示録において いずれ滅びるものを愛する人々が神の権威を受けて滅びをもたらす者を憎む様子が描かれています しかし この世の全てのものは私たちの肉体ですらも神様の作品であり 神様からお借りし預っているだけのものに過ぎない 私には神はいらない一人で生きていける と いう者から 空気や肉体にはじまる全ての物質が取り上げられないのは ただひたすらに神様の寛大さのゆえで しかしそれは 裁きの日まで という期間限定のものである と聖書には書かれている 聖書の祝福の部分は信じるけど裁きの日のことは信じない と いうのは 信仰ではなくただのご利益主義でしかなく そういう人について話すとき神様は 笑顔で悲しみの涙を流される お小遣いをくれるお爺ちゃんは好きだけど悪い友達と遊んじゃいけませんとかいうお爺ちゃんは嫌いだからお小遣いは貰うけど 話は聞かないからね! みたいな感じかなぁと思います… しかしその「悪い友達」は 表面では友達面をしていても本気でその人を殺すつもりなんですけどね だから 神様は涙を流されるわけで 真理に目が開かれ救われますように と とりなしの祈りをするのが神様のみこころだと思います… アーメン コリント人への手紙第二6章16-18節神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」