神様だけに頼るための試練
以前書いたかもしれませんが 人の霊的な背景というのは 知る知らないに関わらず 人の言葉に乗って影響を及ぼします イエスさまは 悪魔の誘惑にも 人がイエスさまを持ち上げるような発言も 必ず否定されていましたが 敵の誘惑や人を神より高くする賛辞は 無言でいると 同意を意味してしまいます また 悪霊を追い出した後に 空っぽのままにしておくと 以前よりもっと質の悪い悪霊を 7つも連れて戻ってくるという表現が 聖書の中にあります 更に この話も以前書きましたが 旧約聖書では 女性が暴行を受けたときに 助けを求め叫ばなければ同罪とみなされる という表現もあることから 敵に対してNoを言うことというのは 霊的な世界において 物凄く 重要であることがよくわかります 聖書の中に いつも喜んでいなさい 絶えず祈りなさい と書かれていますが これというのは 敵に付け入る隙を 与えないようにという意味もあると 感じることがありました ちょっとおかしな雰囲気だな と思っても お祈りをすることに加えて 神様に意識を向け感謝の賛美をすることで その場の雰囲気を変えることすら出来ます 自分が聖霊に守られるだけではなく 聖霊が自分を通して自由に働いて貰えるように 自分を神様に明け渡すことが出来ます しかし逆を言うなら 自分の思いや発言により 敵に付け入る隙を与えて 敵の通り管になることもあり得るわけです 自然なままの人というのは 何も考えずにいると 悪い方へと意識を向けがちな生き物です それはある種の保身であるわけですが 保身ばかりで希望がなくなれば 人は生きていくことが出来ません 夢があり 希望があって目標が出来ますし 良いイメージを抱くことが出来るから 前に進むことが出来ます 起きる事柄に対してどのような イメージを持ち どのように考えるか そこを拗らせてしまうと 本当にしんどいわけですが 神様という存在を知った今は どんな事があったとしても 神様による新しい方法を期待することが出来て それは もしかしたらとてつもなく チャレンジであることも多いのだけど しかし不思議と平安の中に留まれるわけです しかも そうやって神様だけに期待をして 飛び込んだ時に起こることは 本当に 時に叶って美しい そこにもし試練があるとしたら それはいつだって 神様との関係を 深めるためのものであると感じます