神様のくびき
昨夜寝る前に りゅうくんと普段あまり話さないことを話しました 普段 気にも止めていないことが何故か気になりりゅうくんに伝えてみたいという思いが与えられたことがきっかけでしたが りゅうくんにとっては興味津々の話だったようで思いがけず それにまつわる自分の思いを語ることになったのです 神様からの賜物 話した内容は割愛しますが結論として言うなら 自分の思いで生きることを辞めて(諦めて)自分の背負うべき十字架が何であるかを自覚して受け入れる時に神様との歩みが始まる ということにまとまりました りゅうくんに尋ねられたのは私の思いですが 私はかなり若い頃に自分の思いで生きると人生失敗するということを体験で学んでいたので(苦笑 最善は何か 神様ならどうされるだろうかと意識を高いところへ求め続けていました その思いの故に苦労もしましたが(守りがないと偽物がたくさん寄ってくるので…) しかし最終的に 真の神様に出逢い守って頂けるようになってからは本当に たくさんのみ恵みに祝福されました そして ここまで来る道中は神様から頂いた賜物により守られていたのだともわかりました 自分自身と向き合う戦い ですが 自分の十字架 というものに対しては最初は何故これなんだー!という思いが付きまとっていました 自分が自分である故に逃げられないものに以前は大変苦しめられていたからです 一番コアな部分 自分の召しこそが敵が一番壊したいことであるとすればそこが一番の集中攻撃を受けるだろうことは容易に想像が出来ます また それは自分自身のことばかりではなく傷付いて自分の人生を歩けていないような人たちと話をしていてもそのように感じます 神様の守りに入った後であってもまた傷つけられるのではないかと「神様の守りを疑えば」それは不信仰の故にその通りになります ですが 神様の守りの中であればその苦しみは喜びへと変えて頂けます 「変えて頂ける」という確信を掴むまでは信仰でそう信じるしかありませんが信じていればその通りになります この辺に関しては 自分の信仰の通りになると言わざるを得ないかもしれません 恵みはただ一方的に ですが神様は その間違えた信仰… 悪いパターンは変わらないと信じて疑わないような弱い人であっても きちんと助けられることを今 目の当たりにしているのです 口では 幸せになりたいと言いながら同時にその同じ口で 自分を不幸にする呪いを吐く人に触れられて造り替えています そこで生じるのが 自分との戦いです 自分の思いに生きて行き詰まり自分の思いを打ち破る戦いに入るわけです それを見ていて ふと何故この人は呪いの言葉を吐いてしまっていたのかな? と思っていたのですが そうか 自分の十字架を背負う覚悟がまだ出来ていないからなんだな と 気が付きました あまりにも心の傷が深すぎて自分の十字架なんて知りたくない!という叫びが呪いの言葉となって外に出る 自分の思いを守るための呪いなのです ですがその一方で本当は幸せになりたいという本音もぼそっとつぶやいているわけです それは 魂の叫びです 神様は 心の傷をご存知ですなので優しく こう仰るのです マタイの福音書11章28-30節すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。