尊厳とプライド – DIARY WITH GOD
2017.02.26
今日は幾度となく「尊厳とプライド」について話す機会がありました
りゅうくんが神様から見せられたビジョンがその違いを説明するのにとてもわかりやすかったので引用させてもらおうと思います
イザヤ書55章1-2節ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。
この聖句をりゅうくんがビジョンで見せられたそうです
スーパーマーケットをイメージしてくださいそこには神様が立っているレジの他によくわからないものが立っているレジがいくつもあります
欲しいものを買い物かごに入れて神様のレジに持って行きます
すると神様がバーコードで読み取っていくのですが全て「0円」と読み込まれます
しかし かごの中に不要なものが入っていると神様は かごからそれを出されてしまいます
神様のレジでは 必要なものが無料で手に入りますが「欲しいと思った不要なもの」はレジを通らず手に入れることが出来ないようになっています
ところが 他のレジに行くと商品の値段が点々バラバラで場合によってはとても商品の質に見合わない法外な金額が請求される場合もあります
りゅうくんが見たのはここまでだそうで「レジを選ぶ知恵知識が必要だ」と感じたそうです
私はその話を聞いた時
神様のレジで欲しいものが捨てられるのを見て怒って他のレジに行く人がいるなぁ
と 感じました
この判断をしているのが「プライド」です
私は欲しいのだから神様が不要だと言っても関係ない私が欲しいものを認めてくれるところに行く!
と言って わざわざ自分から自分を騙す耳障りの良い嘘をついてくれるレジを探しに行ってしまうのです
勿論 その結果は目に見えています必要なものにはお金を払わなければいけないし場合によっては法外な値段で買わされてしまうのです
しかも 本人はそのことに満足しています
高くて不要なものを買うこともステータスだという刷り込みをされているのです
これは贅沢品は必要ないという意味ではありません
神様は 良いデザインや品質の良いものにも十分価値を認めておられます
ですが それがその人に本当に必要なものかどうかの判断があり 不要であるなら捨ててしまわれます
神様が大切にしてくださっているのは「尊厳」です
神様の目から見てあなたにとって相応しいかどうか 必要かどうかを神様の取捨により教えてくださるのです
私はこのことを ある時期リアルに体験しました
以前 私は安くて粗悪な食料をたくさん買うことが節約のために必要だと思っていた時期がありました
ですが そのせいで体調を崩すこともわかっていたので神様に「身体に良いものだけを食べたいです」と祈っていました
当時の私は 良いものを食べるためにはお金が必要だと思っていたのです
ところが神様は 収入は全く変わらない状態なのに私が良いものしか選べない状況を作られました
具体的に言うと 高級食品しか売っていないお店でしか使うことのできない商品券を貰ってしまったり
「知り合いの農家の人からたくさん頂いたから」とか「近所で安かったから」とか言って低農薬のお米や野菜を送って頂いたりしたのです
その時に「お金がないからと言って悪いものを選んでいるのは自分だ」と気が付きました
そこで 自分が買い物をする時にも必要だけ買わせてください不要なものは一切買わせないでくださいと必ずお祈りをしながら
信仰を持って良いものだけを選ぶようになりました
すると不思議なことに 必要なものを買っても不足することは一切ありませんでした
あれこれ様々な手段でもっていつでも必要は必ず与えられるのです
同様に これは身体に良い これは体に悪いと「人間の知恵」で判断していたことに対して神様はテコ入れをしてくださいました
例えば お菓子を食べるのはたまには良いけど食べ過ぎは良くない
と思っていると 教会に行ったら大量にお菓子を貰ってしまうということが何度も繰り返し起こったため
自己管理を諦めて 好きなものを食べるようになりました
すると忙しかったりストレスがあったときは食事の内容が良くても血液検査の結果が悪く
楽しく過ごせていれば お菓子を食べ過ぎていても検査結果が良かったので
食事の内容は関係ないことがよくわかりました
一時期 神様に示されてかなり大量にクッキーを作っていて試食もかなりしていましたがそれで数値が悪くなることもなかったのです
人の方法で改善されるのでは全く面白くない神様の方法でなさってください!と祈っていたのですが
今正に 人の知恵知識ではない神様の方法で栄光を現そうとされていることを強く感じています
要するに
「粗悪品ではなく良いものを食べたい」という私の思い「人の方法で改善してもつまらない」という私の思い
それを神様は「私の尊厳」として大切にするように示してくださったのです
もし 私が自分のプライドを取って神様の促しを察することをせずに
「そうは言ってもお金がないのだから」と人目線で我を張っていたなら決して奇跡は起きませんでした
また「与えられること 施されることはみっともないことだ」と意地を張っていても決して奇跡は起きませんでした
これが 尊厳とプライドの違いです
上記の例え話を用いるなら 私の場合は
神様のレジに粗悪品を持って行ったら捨てられてしまい良いものだけがレジを通過しお菓子をかごに入れなかったら頼まずとも神様がかごに入れてくださったのです
その時に プライドや人の知恵知識が勝つか神様が自分の尊厳を大切にしてくださっていることに対して謙遜に感謝の意を表せるかで全てが決まるのです
神様のレジに自分が選んだものを持って行き神様がレジを通さず捨ててしまわれた時にプライドを振りかざして他のレジに行く人は確かにいます
また 神様のレジで0円と表示されているのに何が何でもお金を払おうとしている人もたまにいますがそれもまた プライドでありこの世の奴隷なのです
ですが
神様がなさることは全て良いことだと信じているなら
神様が自分の意に反したことをなされた時にその意味を真剣に考えることが出来るのです
その経験を通して「尊厳を大切にすること」を知ることが出来るようになると感じています
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蛇足ですが
ある時神様に「私が与えることが大好きなことは神様はご存知ですよね 私を与えるものとしてください!」
と 祈ったことがありました
するとその直後から スーパーやファミレスで私の前で小銭を落として見つけられずにいる人や忘れ物をする人が多発するようになりました
その時思い出したのはこの聖書箇所です
マタイの福音書17章24-27節また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」彼は「納めます。」と言って、家にはいると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」
どう解釈すれば良いのか 物凄く複雑な気分ですが^^;人のお役に立てていることは確かなので 感謝しています