自分が造られた目的を求める – DIARY WITH GOD

2018.03.16

昨日の日記に書きましたが

りゅうくんが 神様から受け取った物語は

神様が与えてくださった

「私たちの結婚は 家に代々続く

呪いを打ち砕くもの」という預言を

神様の方法で為してくださるものでした

はじまりのいえ

(一番上の物語は最新のものなので

スクロールして一番下にあるものから

順番にお読みください)

物語の中で 神様が

ある登場人物の祈りに

目を止められ それを

成就させるべく事を

起こしてくださった という

表現が出てきます

これを読んだとき 神様が

イスラエルの神殿から去られる時

3年半も 誰かイスラエルのために

祈るものは現れないものかと

待っておられたことが思い起こされました

神様は ご自身だけで人の問題を

解決することはされません

人が祈り 願う心をご覧になり

それに応えてくださいますが

神様はいつでも 良いことを

人のために願っておられ

それを祈る人を見付けられると

その祈りの成就のための

協力者となれるように

道を開いてくださいます

ですが 協力者となるための道は

人の思いを遥かに超えているので

そこに飛び込んで神様と一緒に

行動を起こせるかどうか

神様の道に入っていけるかどうか

という人側の問題が出てきます

モーセは ヘブル人のために

思いがありましたが

その結果 殺人をしてしまい

荒野に逃げることになりました

また 神様から任命された時も

あれこれ理由をつけて

何とか断ろうと言い訳しました

いざ動き出せば 素晴らしい奇跡と

ヘブル人たちの反抗の板挟みとなり

最後の最後には ヘブル人の態度に

忍耐しきれず 神様の恵みを

伝えることが出来ずに

約束の地を見ることが出来ませんでした

本当に 大変な苦労をした人で

しかし神様は モーセを友と呼び

約束の地には入れなかったものの

神様により高くあげられました

旧約の時代 聖霊さまが

内に住んではおられず

時々に臨まれる時代というのは

どれ程大変であったかと思います

ですが新約の時代はひとりひとりに

聖霊さまという助け主が与えられ

慰め 励まし 建てあげがあり

必要は全て満たされているのです

神様は 私たちが

いつでも神様が共にあって

本当に良い人生だった と

満たされて朽ちるために

私たちを造られたのではありません

神の似姿に造られた人は

神と人の楽園を拡大して

地を覆うという

祝福が与えられました

罪により盗まれたその祝福は

イエスさまにより取り返され

イエスさまを信じた時に

私たちの手に戻されることが

約束されますが

しかし それが現実になるかどうかは

私たちがどれだけ神様と共に

生きるかどうかであると思います

イエスさまの救いを受け取りながら

聖霊が語ることは滅多にないという

敵の嘘を信じるなら

信仰の通りになるだろうと思います

かと言って 学びも吟味もなく

霊的カバーもないところで

神様の声を求めれば

恐らく傷付くことになると思います

私自身がクリスチャンになる前

そうであったからです

聖書を知らなければ

その預言が神から出たものかを

吟味することも出来ません

語る霊がどこから来たものかを

試すことをせずうのみにするなら

混沌に巻き込まれるのは

聖書にある真理です

しかし

聖書を ただの良い生き方の指南書

ルールブックであると思うなら

律法学者が陥った過ちと

同じ道を辿ることになりかねない

ということも 聖書にある

真理であると思うのです

少し話が逸れましたが

兎に角 敵はあらゆる手段で

人を 本来の任務に歩ませまいと

それこそ命を取るつもりで

かかってくるものであり

もし誘惑に対する弱さを

神様に委ねることが出来なかったり

神様の愛と守りの確信に立てなければ

要するに 神様との関係が

きちんと出来ていなければ

とても危なくて 本来自分が

どんな目的で造られたかなど

示しようもないんじゃないかと思います

しかし

神様は仰います

あなたが本来の生き方をせず

敵の嘘に勤しみ続ける限り

神があなたを造った本来の目的は

形になることがない

本来の生き方をしない間の

自分自身の必要は

労苦して得なければいけません

そしてその労苦に全てを奪われ

本来の道に向かえないのです

そうやって敵は

人を本来の道に向かわないよう

奴隷として縛っています

奴隷として生きることは

茹でガエルとして生きることです

死を意識する程になる前は

居心地が良いものなのです

ヘブル人たちは 奴隷だった時は

助けを求めていたのに

いざ救い出されたら 多くが

奴隷でいた方が良かったと言い

そのように呟いた人は誰も

約束の地に入れませんでした

ただ 神様が仰ったのだから

神様が為してくださると言ったものだけが

約束の地に入ることが出来ました

私たちの目的は 神様に助けられて

荒野で朽ちることではないはずです

御名があがめられますように

御国が来ますように

御心が 天で為すように

地でも為されますように

それが ただ暗唱するものではなく

現実となることにこそ

神様と共に生きる意味が

あると思うのです

神の義に生きるとき

全ての必要は与えられる

神の義 それは

神が造られたイメージ通りに

生きることであると感じます

今日 神様から語られたことは

これでした

あなたがもし

本当に望むものであれば

それは必ず与えられます

ですがもしあなたが

不要なものを欲するなら

それを望む理由に光を当てます

そのように

全てが明らかになることを

もっと望んでください

私は全てを明らかにします

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