神に遣えるリーダー – DIARY WITH GOD
2021.11.01
最近神様から示されることは深く考えさせられることばかりなのですが
その中で 今日はずっと示されていた人の奴隷としてではなく愛あるリーダーとして神様のために働く
ということについて人を見ないというのはどういうことかを示されました
今日のQT聖書箇所はヨシュア記20章だったのですがここは大変短いところです
12部族の割り当ての地とレビ人のための町、そしてヨシュアが住む町が決まった後
逃れの町を定めるようにと神様に示されたことと部族ごとに町を決めたことが書かれてあるだけです
以前の私は 示されて決めたというそれだけをそのままに受け取るだけだったのですが
今日は この定めに対してこんなこと示されなかったら絶対に定めも用意もする者はいない
この世にこんなことを思い付くのは神様以外にいない ということを物凄く強く感じました
思い付くという表現も変なのですが人間のリーダーも 悪魔も絶対に思い付くことのない神様にしか創造出来ない決まりだ
ということを強く感じたのです
QTの中で神様はこの箇所について
今だったら交通事故に対するものと考えるとよい と語ってくださいました
それを語られた時にもし交通事故が加害者と被害者の間に血を見るような復讐劇が繰り返されるようなものだったら車社会は今のようには発展しなかった
という思いが来ました
そう考えると 神様は人の考える目先のことではなく物凄く高くて広い視点で大変合理的な制度を創られたと感じました
聖書には 賄賂を受け取って裁きを歪めてはいけないことが書かれていますが
今回の示しと合わせて考えると神様の示しというのは本当に公平かつ人の発展のために必要なもので満ちていると感じました
それを思った時 つい最近読んだベン・ホロウィッツ氏の著書「WHO YOU ARE」を思い出しました
この本は 著書がピックアップしたリーダーたちの話が出てくるのですがその中に 刑務所の中で驚異的なリーダーシップを発揮したある囚人の話が出てきます
派閥があり搾取があり囚人による囚人殺しも日常茶飯事だったという刑務所の文化を塗り替え
囚人たちが社会復帰するための学びの場や支援を提供する文化を作り上げた人物です
様々な負の感情に囚われた人々に同じく負の感情の果てに殺人犯となったその人がなぜ 立ち直ったばかりか人々を引き上げられるまでになったのか
それは努力や根性や使命感といった人の努力に由来するようなものではなくもっと根本の 人が欲する良く生きたいという素直な欲求に基づくようなものだと感じると同時に
人や悪魔からこの発想は絶対に出てこないものだ
と感じました
悪い経験の中に育ち師とするような人もなく刑務所という 負の感情が渦巻く中で様々な決断をしていくわけですが
その時に 人を中心にするのではなくお金や人の称賛といったものでもなく生き抜くことと高潔さについて徹底的に考え抜くに至るまでに感銘を受けるような本に出会います
要するに学ぶ機会はあったのですがその本を読んだときに なぜ感動してそれを自分のものにしようとしたのか
もっと言うなら他の人はやらなかったことをなぜ彼はやったのか
誰も味方をしない むしろ反発する力の方があるような環境でどうしてそれを成し遂げられたのか
その思いはどこから来るのかと考えた時神様から来ているとしか思えないのです
この件に関わらずクリスチャンであるかどうかに関わらず神様からの愛によるものだと思うことがたくさんあります
神様は被造物全てにその愛を注がれているのは勿論人の心をご覧になり思いを与えているのだろうなぁ
と思います