聖霊さまの流れと地雷 – DIARY WITH GOD

2016.09.22

昨日の補足ですが

一昨日の 願ったことがない祈り

それは 祈った直後に即座にある方向へ私を行動させました

変な表現ですが

祈ったことを即座に実行に移していたわけです

余計なことを考えるまでもなくこれは聖霊さまの促しだな とわかりました が

しかし自分が切望しつつも関わりあいたくない世界

自分的に 気持ちの整理がついていないことでもあったので

正直 本当にこっちでいいのか?

と 思ったら りゅうくんが思い切り地雷を踏んでくれたこともあり

紆余曲折ありつつも こっちで良いと明確にみこころを知ることが出来たのでした

そこに 昨日の神学校の内容…

毅然とした愛

赦すということは罪を犯している人の罪を見逃すことではない

目の前で 罪を犯している人がいたとき或いは自分が被害者になってしまったとき

どのような態度であるべきか という話

裁かずに 被害者にならずにクリスチャンとしてどういう態度であるべきか というお話だったのですが

りゅうくんが踏んだ地雷 というのが正にそれだった

神様が 目の前にいる人の罪を教えてくれたのだけどどうすればいいかわからなかった と

罪の指摘はしちゃダメよ?と言ったらやっぱりそうだよね と言っていたけど本人は指摘したかったところが問題w

では どうするか?どうすればよかったか?

それは りゅうくんと神様の関係の今後の課題で その答えが昨日の神学校の内容そのものだったと思うし

そして私が行こうとしているところもそういう世界であるわけです

無自覚に 神様が喜ばれないことをよしとしてしまっている人たち

そして 苦しんでいる人たちです

結論から言えば

イエスさまは 罪人を救いにこられたのであり裁くために来たのではありません

神の国を彼らに伝えに行くことこそ神様のみこころです

しかし私たちと共に歩く人は罪人であってはならない

神様がどれ程にあなたを愛しているのか

それを伝えることと罪人の罪を黙認して共犯者になることは違う

その線引きはとても大事です

裁きは 神様のものだけど兄弟が死に至らない罪を犯していたらきちんとそれを指摘するように聖書にも書かれてます

だから 個人プレーにならないように

なんですよね

…話を戻しますが

そんなこんなで今

私が切望しつつも関わりあいたくない世界に向けて

聖霊さまは 私を用いて何かをされようとしていることを感じます

それは 私の心の傷の回復のためでもあるし

私が牧するひつじさんを探しに行くためでもあるのです

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