神様のみこころという食べ物 – DIARY WITH GOD

2016.12.07

昨日の神様体験のひとつを書きます(神様による人生の創造参照)

福音書の中に イエスさまの伝道中の出来事としてこのような記述があります

ヨハネの福音書4章31-34節そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

失われた人々に起きたリバイバル

この聖句は イエスさまがサマリヤの女にご自身がキリストであることを話された直後のイエスさまと弟子とのやり取りです

この時 サマリヤの女は自分の街に戻り「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」と人々を呼び集めて来て 多くの人がイエスさまを信じました

サマリヤ人というのは イスラエル人とアッシリアからサマリアに来た移民との間に生まれた人々とその子孫で

アッシリアの宗教が混ざった教派を信じていたこともあり イスラエル人から忌み嫌われている人たちでした

ですがそこに リバイバルが来たのです

イエスさまがこのことを為している時弟子たちは食料を買いに行き 留守でした

戻ってきて食事を勧めたのにイエスさまは満たされていて食事は要らないと仰ったので弟子たちは不思議に思ったのでした

「みこころ」の意味

話は変わりますが

実は私は 教会で奉仕をしている時PC作業をしていると(頭を使うと)いつもに増してお腹が空いてしまいかなり違和感を感じていました

かと言って太るわけでもないので本当にエネルギーを消費していたみたいなのですが

あまり良いことだと感じていなかったのでこの聖句を読む度に この時のイエスさまのような体験をしたい!と強く願っていました

そしてこのことは イエスさまのように伝道の時に起こるものだと勝手にイメージしていたのです

何故なら伝道は 全てのクリスチャンに与えられた召しであると教わっていたこともあり伝道こそが神様のみこころだと信じて疑っていなかったのです

ですが 神様のみこころというのは必ずしも伝道だけではない

ということを強く感じることになりました

昨晩は 教会の牧師さんや兄弟姉妹に声をかけて羊肉が美味しいお店にみんなで行ったのですが

食事をする前から神様の喜びに満たされて全く食べていないのにお腹いっぱいになってしまったのです

お陰で肉を焼いたり みんなと話をすることに専念出来たので良かったのですが伝道とは全く関係ないシーンだったので嬉しいやら驚くやらだったのです

後になり 以前神様が私に見せられた夢のことを思い出しました(豊かさへの招き参照)

夢の中で神様は 私に宴会の席を見せられてこれからここにたくさんの人を招くが食材が足りないから食材をもっと買ってきなさい と仰いましたが

昨日の晩餐が その宴会だったと感じたのです

御国の宴と自分自身の召し

確かに 神の子どもたちが楽しく集まり宴会の席を設けることに対しては並々ならぬ羨望を抱いていました

あるクリスチャンの集いで皆さんが食事をしているのを見た時に地上に御国が降りていることを感じものすごく感動したことがあるのです

その集いに参加されたゲストの牧師さんはあまりの素晴らしさに感動して世界中の要人に声をかけてくれたほど聖霊に満たされた食事の席だったのですが

こういうのがクリスチャンにとっての日常になるといいのにな

と 思っていたのです

私とりゅうくんの2人だけでの食事は比較的それに近いものがあり

いつでも食事のお祈りの時には神様 一緒に食事をしてくださりありがとうございます♪という言葉を入れています

また 教会でのランチセルの時もお花畑セルと自称しているのですが(笑聖霊に満たされていることを感じています

ですが昨晩は それとは比にならず神様が これこそがみこころだと大変満足されていることを感じました

そして 上記の聖句を思うわけですが

伝道ではないシーンでこの体験

というのはどういうことなのだろう?私の召しって一体何なのだろう という疑問にもなってしまいました^^;

この件については今後も神様に尋ね求めていこうと思っていますが

一つの可能性としては執事という立場が近いんじゃないかなという気がしています

執事というのは使徒の働き(使徒行伝)6章に出てくる役職なのですが

伝道や祈りのために働く使徒たちが教会での人間関係トラブルや食事の世話などに時間を取られるのは良くない

ということで それらの役を担うために任命された 信仰と聖霊とに満ちた人たちです

聖書の中にはそれ以上の記述がないのですが調べてみると 執事に任された仕事の範囲はかなり広く また不明瞭であったようで

「教会の何でも屋的」なニュアンスを感じるのですけど

私の教会での立場は正にそんな感じだったこともありますし

伝道師である姉妹ともずっと教会の外は彼女 内のことは私と頼られていたり

伝道に召されているりゅうくんとパートナーであることなどを考えると

外に出れないのは嫌だーと叫んだ直後なだけにちょっとどきどきしています(苦笑

とは言えまあ

牧会にも召されている感じがしていてみことばや神様の思いをわかりやすくかみ砕いて伝えることは大好きですし

今はモノ作りに召されていて専念するようにも示されています

そう考えると 一つの召しだけに召される感じでもないのかもしれません

それに役職名が何であっても私は神様がやって欲しいことを忠実にやるだけですからね(・▽・)

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