栄光の器 – DIARY WITH GOD
2016.08.23
神様がくださる恵みに対して 聖書では「驚き怪しむ」という表現があるほどに
神様が下さる恵みは人の気持ちや想像をはるかに超えたものであることがあります
主の栄光を現す器となる
と 決断して自分の思いや必要を一切横に置くとき
必要は全て与えられます
例えば 衣食住 経済の必要人間関係やトラブルの解決ストレスや病からの解放
或いは夢 希望 目標
それらについて 熱心に祈ることも多分間違えてはいない
だけど それらを満たされてどうするか?
と いう部分を神様はご覧になる
熱心に求めて それを得たときに多くの人に証して歩くタイプの人は熱心に求めると得られます
こういうタイプの人は証をしたいから奇跡が見たいという情熱に燃えて熱心に祈ります
そういう賜物があるように感じます
ですが
熱心に求めるものは手に入らないのに全く自分が望んでいないような素晴らしいものがやって来て
自分では満たされた思いがしないのに周囲から 神の栄光の器として褒められてしまい困惑している人
というのがいます
ですが 覚えておいてほしいのが
神様は 真の意味で良いものしかくださらない
ということ
思いの満たしが 果たしてその人を幸せにするかどうかは本人には実はわからない
経験をして痛い目を見ればわかる ということもありますが
しかし 取り返しのつかないこともある
それをご存知である良い方は決して 取り返しのつかないような悪いものは与えられないのです
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旧約聖書では このことを実際の人物と出来事を通して教えてくれています
創世記25章~にエサウという人が登場します
アブラハムの子がイサクイサクの長男がエサウです
エサウには双子の弟ヤコブがいますがヤコブは エサウのかかとを掴んで産まれてきました
ヤコブという名前にはかかとを掴むもの=出し抜くものという意味があり その意味の通りヤコブはエサウから長子の権利を奪ってしまいます
人間的な目線で言ったら奪うものの方が俗悪なように感じますが
しかし聖書ではエサウのことが俗悪な者と表現されています
ある日 エサウはお腹を空かして狩りから家に帰りました
するとヤコブが料理をしていた
エサウがそれを食べさせてくれと言うとヤコブは では長子の権利をくださいと言う
その時にエサウは
長子の権利なんて腹の足しにならないくれてやる と簡単に取引に応じました
長子の権利は神様からの約束です
それを たった1食の食事と引き換えに簡単に手放してしまった
だからエサウは「俗悪な者」なのです
エサウは 取り返しのつかないことをしてしまいました
もし 死んでしまいそうな程にお腹が空いていたとしても
神様からの恵みの約束を手放してはいけなかったのです
今 何かに飢え乾いていてそれが満たされたら幸せになれると信じて求めているのに得られない
そんな時は
私を俗悪な者としないでください
と 祈ってみてください
神様の恵みと祝福の約束を受け取ります と宣言してみてください
必要は 満たされます飢え乾きも 必ず満たされます
神様の召しを第一にするとき全ての必要は満たされます
自分に必要なものはこれなんだ と勝手に決めつけてしまい自分にある祝福を手放すことを決してしないでください