神様が引き出そうとしているもの – DIARY WITH GOD
2017.02.11
今日も昨日に引き続き必要がすべて満たされた後の願いについてですが
どうやら神様が私に望んでいることは「神様に同調せずに 私自身の思いで祈ること」であるような気がしてきました
クリスチャンになり 神様と向かい合うことが出来るようになってから 私は2つのことを祈っていました
一つは 神様が私を造られた理由をきちんと達成させてほしいという祈り
もう一つは 私が欲しいと思うものではなく「神様が私に与えたいもの」をきちんと受け取らせてくださいという祈りでした
クリスチャンになるまでは死というゴールを目指して生きていたのが
永遠に神様と一緒に生きるという全く考えたことがない価値観に代わり
神様と一緒に居れるだけで十分幸せなのにそれ以上に何を求めればいいのか全くわからなかったのです
ですが 神様はご自身のご栄光を現すため人にその愛とみ恵みを示される方で
それは私が思うものよりも良いものであるに決まっています
なので 神様が私に与えたいものをください全部お任せします となったわけです
また 世の中に対しては神様の目線で世界を見ることを望みました
神様の思いを自分の思いとすることが私にとっての願いとなったのです
ですが 仮に同じ目線に立ったとしても私自身は何かを出来るわけではありません
ですから 神様の目線を教えて貰うことに加えて
この件に対して私は何かをするべきですか?と 尋ねるようになりました
すると 祈ることを促されたので示されたことに対して祈るようになりました
神様の御心が為されるように
そのように祈っていたわけですが
最近 どうもその先に行くように示されていることを感じているわけです
「その先」とは何だろう と考えた時に思い当たったのが 旧約聖書におけるモーセの態度でした
不信仰なヘブル人に対して怒りを燃やし滅ぼしてしまおうとする神様に向かって
そんなことをすればエジプト人が「神は彼らを滅ぼすために連れ出した」と言いますから怒りを納めてください と祈ります(出エジプト記32章参照)
もし 神様の思いと同調していたらこの時のモーセのように祈ることは出来ません
神様に流されることなく人にも流されることなく自分の思いで祈ることが出来なければとりなしの祈りは出来ないのです
モーセはこの時 人を憐れんで欲しいと言ったわけではありません
神様の御名が称えられるようにと祈っています
とても人には無理だと思えるようなことだからこそ神様の栄光が現れるところですよねっ
と いう祈りをすることは確かにあるのですがしかし御心なのかなぁどうなのかなぁと迷っちゃうのですよね
でも ダビデの祈りの態度を見ていると大切なのは祈りが叶うかどうかじゃないと思うのですよね…
なんというか
もっと自分を出して
と 言われているような気がします