知恵知識とわきまえ – DIARY WITH GOD

2019.07.06

一昨日から昨日の出来事を乗り越えて

りゅうくんが物凄く安定してくれているので

本当によかったなぁと思っているのですが

今日はQTから もしかしてこういうことなのか?

と思うようなことが示されました

QTで語られたことは イエスさまの公生涯において

弟子たちはイエスさまの御言葉を聞いていたにも拘らず

御国の者としての振る舞いというのは 聖霊さまを

受けた後なんだよ ということだったのですが

それを聞いて思い出されたのは それとは逆のことで

リバイバルなどで聖霊さまの満たしを受けても

その後に学びがないことでリバイバルが続かない

ケースが物凄く多い というお話でした

イエスさまの時代に弟子たちは 先に知恵を受けて

後に聖霊さまを受けました(パウロもそうです)

うちの教会は 聖霊のバプテスマを大切にする教会で

洗礼を受ける前でも聖霊を受けてから学ぶ方がいい

(聖書を読むときに聖霊さまが教えてくださる)

という考え方を持っています

実際 聖霊さまを受ける前はなかなか読めなかった聖書が

洗礼を受けると面白いように読めるようになりました

(とは言え 自分のトラウマに引っかかるところは

読み進められませんでしたが)

聖霊のバプテスマと学びというのは

どちらか片方だけではなく

両輪なんだろうなと思ったのです

今までのりゅうくんの弱点は 教会などで

聖霊さまに満たされて霊に燃えても

そこに攻撃や迫害があるとすぐに

何も出来なくなってしまうことでした

逃げもせず前にも進まず 本当に何も出来なくなり

一番困るのが 神様からレーマを受け取っても何も出来ずに

人を通して愛の励ましを受け取るまで動けないことでした

それも助けを求めて言葉を貰いに行くのではなく

嫌々しているのを私が後押ししてやっと動くのです

勿論 これはりゅうくんが自分の努力で

どうにか出来ることではないのですが

神様に祈り求めれば与えられ その中で

教会に行くようにであるとか 祈ってもらうように

示されることもあるのに りゅうくんはなぜ

自分から何も求めないのか というのがずっと

(疑問ではなく)問題だったのです

何故問題なのかと言えば りゅうくんは

QTなどを通して求めなさいということを

神様から再三語られていたからです

ここ数日でそれが打ち破られた一番大きな理由は

私がりゅうくんの神様に対する思い違いに

気が付くことが出来て それを修正することが

出来たからだと今日になり示されたのです

神学校の課題で りゅうくんが神様について

書いている内容が思いっきり斜に構えていたので

「これは神様のご性質ではない りゅうくんの

裁きの思いが入ってる」と具体的にどこがどのように

ずれているかを指摘した上で 神様が実際には

どのようなご性質の方であるかを説明したのです

その結果 斜に構えた部分は全くなくなって

りゅうくんの等身大の言葉が出るようになりました

この出来事を思っていると

イエスさまの復活後に歩いていた弟子の2人が

イエスさまと合流して解き明かしを聴いているうちに

霊に燃えてきた という聖書箇所が思い出されました

メシアだと思ってついて行っていたイエスさまの

十字架(処刑の様子)を見て議論していた弟子2人が

イエスさまの解き明かしを聴いて

イエスさまが本当にメシアで復活するという希望を抱き

イエスさまがパンを割いた瞬間に 目の前にいる方こそが

その方であると気が付いた という箇所です

(ルカの福音書24章13節~32節)

イエスさまが全ての人の罪を背負って死に

復活されたという事実は事実としてあるのに

この2人の弟子にしてみたら 希望を聞いて掴んだ直後に

それが現実になったと感じたことでしょう

実際には目の前に既にあるのに

目が開かれていなかっただけなのです

神様の救いと御恵みが既にあると信じるということは

この様なことなのだろうなぁと思いましたが

りゅうくんの思い違いを指摘して 神様のご性質と

りゅうくんの斜に構えていた思いが分離されたことにより

神様がどれほどに愛と憐みに満ちた信頼に足る方であって

私たちをどれ程愛してくださっているかを

やっと理解してくれたのかな と感じています

私も洗礼を受けて数年は 神様に裁かれるのではないかと

感じていたけれど それは過去の思いのままに敵の嘘を掴み

自分で自分を裁いているだけであり

神様は赦しを受け入れて欲しいと願っていますが

心の傷により 神様に間違えたイメージを

投影をしてしまうというのは大変よくある話で

殆どの人がこの問題にぶつかってしまいます

ですがその様にしてぶつかる問題から解放されることにより

神様との関係が深まるので この件自体は成長過程です

それは成長する当事者の話ですが

今回の件では私の方にも思い違いがあったと

悔い改めたことがありました

私はこの件は 神様とりゅうくんの関係性の問題で

自分には祈る以外には何も出来なくて

成長させてくださるのは神様だ と思っていたのです

勿論実際にりゅうくんを成長させてくださるのは神様ですが

神様はりゅうくんの剪定をするための協力者として

私が選ばれていたことに今回やっと気付きました

日々りゅうくんの近くにいてりゅうくんのことを

知る機会が与えられている者として

客観的な神様目線の霊的状態を伝えることは

とても大切なことなんだなぁと思いました

神様が剪定しようとされているのに

本人が嫌だ嫌だと言っている(思い違いをしている)時に

神様は良い方で その枝を切れば大きな収穫を得るよと

正しい方向へ伸びるようにサポートすることは

確かに聖書でも 神様が人に伝えるよう託すところです

つい最近 新約聖書の手紙の殆どが

人の思い違いを正すことを促す内容で

それをするのは人の役目だということに気がつきましたが

よく考えたら斜に構えたままに聖書を読んでも

間違えた解釈をするだけで先に進めないので

読む進めることも困難になってしまいます

(トラウマがあると読めなくなるのも同じと思いますが)

実はりゅうくんが斜に構えていること自体には

気付いていて しばしば指摘していたのですが

どんなに指摘しても改善されず困っていたのですが

間違えた神様のイメージを正すことでやっと

改善された ということは神様の間違えたイメージが

りゅうくんの土台であり根っこだったということが

私にとっては思いもつかなかったことだったのです

自分自身も 神様の愛をなかなか受け取れなかった時期は

自分のことを裁く思いから抜けられず

神様に求める気力もなかったのは確かですが

だからと言って 神様は良い方だ というところを

疑ったり歪めてしまったりすることはなかったので

(神様は素晴らしい方だけどよく知らないし

神様の素晴らしさが自分に関係があると理解して

受け入れるのに時間がかかったタイプなので)

思い違いをするという発想はなかったのです

そういえば 私はこの件をどうやって乗り越えたのかな

と思い返してみると 私の場合は人から嫌な思いをさせられて

神様に助けを求めることが殆んどだったなぁと

若干遠い目をしながら思い起こされました

りゅうくんは 外の人に対して本音を言い

嫌な思いをさせられるということはないので

光が当てられる機会がなかったんだな と思うと同時に

ある意味でりゅうくんは安全な場所で

守られているのかもしれないな とも思いました 

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