期待の表れ – DIARY WITH GOD
2016.12.30
昨日は 神様からあるビジョンを与えられ徹夜で作業をしてしまったのですが
ものすごーく楽しかったのですけどあまりにも楽しく集中し過ぎて
愛以外のものを優先させてはいないかと思わず立ち止まってしまうほどでした
神様からの愛の示し
そんな思いのままにQTをしたら昨日の記事(全ては愛のため)になったわけなのですが
きちんと自分が神様のことを愛する思いで作業をしているのかについてはいまいち自信が持てなかったので(苦笑
今朝は 神様の愛を深く感じる日にしてください!
とお願いをしました
すると 神様はたーっくさんのことを語り掛けてくださいました
私と一緒に過ごすことのどこが気に入っているかであるとか
神様が 何故私のことを教会で奉仕をすることから離れてこの世に出ていくように示されるのかについて
とても深く納得が出来るように事細かに教えてくださいました
そして
聖書には怒りは良くないと書いてあるのに私に対しては神様が「怒れ!がんばれ!」とむしろ怒りを表に出すように背中を押される理由を教えてくださいました
期待の有無
一昨日のことですが
部屋の大掃除と模様替えをする中で誰にでも出来るような作業についてはりゅうくんにやってもらえるようにお願いをしていたのですが
ある1つの作業が半分だけ終わっていて半分残ったままに放置されていました
昨日 そのことに気が付いて
あれ?りゅうくん作業まだ残ってるよ?
と言ったら あ!忘れてた!と言うのできちんとやってくれるのかなーと思ったら
今日になってもまだやっていなかったので仕方なし 私が代わりに作業をしました
そして今日 そのことをりゅうくんに伝えてもありがとうもごめんもありませんでした
その時は自分でも気付かなかったのですがそのことがかなり不愉快だったようで
自分の言いたいことだけを話し続けるりゅうくんにだんだんイライラし始めました
何故イライラしているのかも自分でよくわかっていなかったので少し距離を置いていたら
怒ってる?と尋ねられました
で
そう尋ねられると 自分が何に対して怒っているのかが口をついて出るのですが
以前 教会の姉妹から私が怒っている時に話す内容について聖霊さまが話させているように感じる と言われたことがあるのですが
正にそれです
私が自分の意志で言っているのではなく聖霊さまが私に怒りの言葉を与えられるのです
一通り言い切ってから
今 なんかものすっごーい 高いレベルのことをりゅうくんに求めることを言っちゃったなぁ
こんなこと 以前の私なら(後で愚痴るぐらいはするけど)怒りを感じるまではなかったのに
神様に怒れと後押しされるのはなんでだろう
神様はどうも 怒る相手を選んでいるようで精度を上げようとしているのはわかるのだけど
でも 自分が精度高いことをするのはともかくなぜ人にそれを求めなければいけないのだろう
と 逆に自分で疑問を持ってしまうほどなのです
特に 相手を選んでいること
他の人が同じことをやっても絶対に怒ることはあり得ない
というところについて少し深く考えました
どうして他の人がやりますと言ったことを完了させることが出来なかったとしても怒らないのか
それは その人に期待をしていないからです
自分でやります と言っておきながらそれを完了させることが出来なかった時
終わってないよ?と指摘しても完了出来ないのであれば
この人は自分の言ったことに責任を持てない人なんだなと思い代わりにやってしまいます
それについて 特に何の感情もありません
この人にはまだそれが出来るだけの力がないんだなと思うだけです
ですが りゅうくんには自分の言ったことに責任を持ちなさいやると言ったからにはやり遂げなさいと 怒ってしまう
言ったことに責任が持てないようないい加減な人になって欲しくない
という思いもすごくありますがそれに加えて
私はりゅうくんがやると言った言葉に期待をしていたわけで怒ってしまうのは期待を裏切られたからです
そのことを思ったとき
あ 私はりゅうくんに甘えているんだ と思いました
怒るべきと示される理由
すると神様が
やっと気付いたかーっ甘えて良いんだよ 期待もしていいんだよ
と 仰るではありませんか
!?と思いましたが
そこに愛があると神様は仰るのです
愛する故の甘えであり甘えがあるから期待を裏切られた時に怒る
相手を頼りにしていないなら怒ることはないのです
頼りにしているから怒るのです
うーん と思いました
そのことを示されてからりゅうくんに
りゅうくんのこと 頼りにしてるの頼りにしてるからやってくれないと怒るの
頼りにしないという選択肢はないから怒られちゃって可哀そうだけどごめんね
と 言うと
怒ってくれるから成長出来るから怒ってくれてありがとう と言われました
そういえば
クリスチャンになってすぐに神様からよく怒られて!?となりましたが
あれは神様が私に期待をしてくださっていたからなんだなぁと今であればわかります
そして同時に イエスさまが弟子たちに不信仰な人たち と怒っておられたのも期待をしていたからこそだったのだなぁと
そういう接し方も 神様から出たものであり神様から与えられたもので私が神様から受けて人に流すものである…
と いうことだったんですねぇ
聖書にダメだと書いてある「怒る」とは種類が違うってことなんでしょうけど
難しいねっ
まあ 1~2年もすればあの時はわからなかったけど と言えるようになるのかもしれませんけどね^^;