神への愛 – DIARY WITH GOD
2016.10.25
神様との関係が上手くいっていない人や教会の中で浮いてしまう人
聖霊による一致が出来ない人の共通点に気が付きました
それは 愛を第一にする人です
え?クリスチャンにとって愛が一番大事なのではないの?と思うかもしれませんが 違うのです
イエスさまが一番重要だと仰ったのは「神様を」愛すること なのです
そして人を愛することは二番であり自己愛については全く語られていません
神への愛 それは愛という単語よりも忠実さ という言葉で表現した方が適しているのです
自分を一番にする人はこう言います
神様は私のことを愛しているのでしょう?だったら私の思いを尊重してくれるはず!
でも それはちょっと違うんですよね
そうではなく
神様 この状況に私はもう耐えられません!助けてください!と祈ったときに神様は助けてくださいます
もし助ける人がいなければあなたが助ける人となりなさいと任命されてしまいますけども…
ですが
神様は私を愛しているのだから私の思い通りにならないのはおかしい
という論調は 大変的外れなのです
聖書には このように書いてあります
マルコの福音書12章29-31節イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
一番は神様を愛すること二番は人を愛することです
自分の思いを尊重することを良しとする言葉は聖書のどこを読んでも出て来ることはありません
むしろ 自分の思いを差し置いて神様の思いを第一にする生き方をイエスさまは貫かれました
そして その生き方こそが神様に愛される理由であるとも述べています
ヨハネの福音書10章17節わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます
また いのちを捨てるという例えは弟子の心構えとしても仰られています
ルカの福音書14章26節わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
神様は 自己中心的な思いを捨てて自分の十字架=神の召しに忠実である者を祝福される方なのです
神様の愛を知り そして従順を学ぶ過程は雅歌からも見ることが出来ます
雅歌1章6-8節私をご覧にならないでください。私は日に焼けて、黒いのです。私の母の子らが私に向かっていきりたち、私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした。私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。女のなかで最も美しい人よ。あなたがこれを知らないのなら、羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。
まだ1章の6節目です神様と出逢い 神様の愛を知った直後のことです
突然 周りの人たちが自分に仕事を指示してきたしかも 自分の畑はそっちのけにさせられた
なぜこんな目に遭わなければならないのと訴えると
その傍らで子やぎを飼いなさい
と窘められるのです
神様は 確かに愛です従順に出来ない人のことも愛しておられます
しかし愛しているからこそ育てようとされます
その時に 放蕩息子のように出ていくのは本人の勝手ですが
しかし神様はとても悲しまれて帰ってくるのを夜な夜な待ち続けるのです
甘やかして 何も出来ない人間にすることや本人の意思を尊重して不幸になる道へ行かせることは決して愛ではないのです
ですから 人が間違えた思いを抱く時神様はその思いを決して尊重されません
教え育てて 間違えを正すことも愛なのです
イザヤ書55章8-9節わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
最高のものを用意されてそれを受け取ってくれることを神様はいつもお待ちなのです
そして
それを受け取らずに苦しむ人については放蕩息子の父親のように悲しんでおられる
「神様を一番に愛する」と考えた時
悲しむことをすることは 愛じゃないですよね
神様から愛されていることを感じれない
神様を愛することを拒否すれば神様がどんなに愛を注いでも感じることが出来るはずがありません
まずは 神様の愛を受け取ること愛を感じる最初は そこなのです
書いてみると当たり前のようなのですけど
愛を感じたい でも愛を受け取りたくないという葛藤にいるということを知るだけでもかなり違うと思います
その上で
どうしたいのかを求めてみてください
神様の御心に叶うものなら求めたものは必ず与えられます