平安を運ぶもの – DIARY WITH GOD
2016.11.17
イエスさまは 神様の平安をお持ちでした
平安と言っても いつも朗らかであるとか感情の起伏がないとかいうことではありません
もっと実際的な意味での平安をいつでも持ち歩いていらっしゃいました
怒ることや悲しむことなど感情を動かされることはありましたが
それは神様に対する深い愛の故であり
感情に突き動かされて罪を犯すことは決してありませんでした
聖書における平安とは
聖書に書かれている「平安」はヘブル語の「シャローム」という言葉が使われています
「シャローム」には心の平安という意味だけではなく良い幸いなくらし という実際的な意味があり
聖書的に見てみると 無事 安否 平安 健康 繁栄安心 親和 和解といった意味が含まれているそうです
イエスさまは公生涯において病を癒し 悪霊を追い出されましたが
正に この実際的な意味のシャロームを人々にもたらしていたと言えるでしょう
そして弟子たちに対してもイエスさまは同じことをやるように託していかれました
しかし弟子というのは 聖書に書かれている当時の弟子たちのことではありません
マタイの福音書28章19節にあなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい
と書いてある通り
クリスチャン全員に 神様の平安を運ぶものとなる召しがあるのです
神様への情熱
神様への愛 神様への信仰においてはイエスさまは大変情熱的でした
そのため 不信仰な人たちに憤ることは多々ありました
船が嵐で転覆しそうになった時にはともの方(船尾)で寝ておられ
弟子たちがイエスさまに助けを求めた時風を叱りつけて凪にした後に弟子たちにも不信仰であると叱られました
イエスさまは 父がしたことをしているのであり自分がやりたいことは何一つやっていないと後々告白されていますので
イエスさまが「向こう岸へ渡ろう」と仰ったのは神様が向こう岸へ渡ることを許可されたか指示されたからであるのです
神様がそうなると仰られたことは必ず成就する向こう岸へ渡ると仰ったらきちんと渡れるのに
それを信じず 平安の外に出てしまった弟子たちのことを叱っているのです
実は私も クリスチャンになってすぐの頃不安に苛まれると神様からも怒られてしまいどうすれば良いのかわからずにパニックになることがありました(苦笑
「平安に留まりなさい」
言うのは簡単ですが 平安というものが何であるかを理解するまでには結構な時間を要しました
聖書を学び 教会のカリキュラムに参加し知識はたくさん得てそれも役には立ちました
ですが一番の助けになったのは同じような境遇を歩いてきた姉妹からのアドバイスでした
あなたはもう 平安を知っているだから大丈夫
その一言で 目が開かれました
一度でもそれを経験したのであれば平安がどういうものであるのかはわかっているのだから
そこから出ないことに集中すればいいということに気付かされたのです
神様と自分だけの祈り
平安から出ないことに集中するとは具体的には「祈り」の力に頼るということです
イエスさまは毎朝寂しい場所で祈り絶対的な信仰の中にいらしたのでイエスさまはいつでも平安でした
ですが イエスさまが感情を激しく揺り動かされ熱心に祈るシーンが一か所だけあります
それは十字架の直前 ゲツセマネでの祈りです
この時イエスさまは 悲しみのあまり死ぬほどです(マタイ26:38)と仰り汗が血のしたたるようになるほど(ルカ22:44)祈られました
弟子たちには起きていなさいと言いましたが祈っていることが出来ず眠ってしまい
イエスさまは孤独の中で祈られました
霊の目で見れば たくさんの御使いと神様により支えられていましたが
しかし 肉的には孤独だった
3度目に祈られた時にはその苦しみと孤独を乗り越えられ祭司たちに捕らえられる時には矢張り平安でいらっしゃいました
神様の平安が十字架を背負う力となり十字架の先に 希望がある
それを手に入れた復活のイエスさまが恐れ惑う婦人たちや弟子たちに最初に言った言葉もシャロームでした
今 そのイエスさまが私たちの中に聖霊を通して住まわれているのです
今日の 神様からの示しはこの平安を受け取ったものとして生きなさい
でした
コリント人への手紙第二4章8-12節私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。