受け取る時と流す時 – DIARY WITH GOD
2019.09.08
今日は礼拝メッセージが 最近気にしていた
出来事をまとめあげるかの様な内容で
神様による導きと霊の一致を感じて
本当に 感謝だなぁと思いました
今日はQT箇所の社会的背景が気になり
調べてみたのですが それを読んでやっと
文章の意味がわかったのと同時に
神様と共に自分がやっていることは
正にこれだと痛感することになりました
ここ1~2年 導かれたようにして
出逢うクリスチャンの人に対して
古いやり方を脱することが出来るように
神様のみこころを伝える機会が
物凄くたくさんあったのです
その中でも多くの人にあったのが
「神様に喜ばれること」に対する勘違いで
人のためになることは喜ばれることだと
思っている人が大半だったのですが
神様が喜ばれるのは 人のためや
神様のためになることなら
何でも良いのではありません
神様が自分を創られた理由という
範囲を超えたことをするのは喜ばれないし
神様の愛を受け取らないうちに
人に愛を流そうとすることも喜ばれません
何故なら 私たちは神様の栄光を
流す器であるわけですから まずは
神様が自分をどの様なものとして創られ
どうして今の場所に置かれたのかを知り
神様が私たちを通して流すべきものを
きちんと受け取ることが必要だからです
勿論それは過程であり それをやりながら
神様の愛と御恵みを地に流していくわけですが
その受け取り方や求め方について
古いやり方をしてしまっている人も多く
偶像崇拝や自助努力で身に付けてしまった
癖や習慣を打ち破る必要がありました
それは 私が神様から教えて頂いたことを
分かち合うことになりますから感謝でしたし
それを行うことで 私たちにも神様から
霊的な報酬をたくさん頂きました
今日読んでいたQT箇所というのも
偶像崇拝のど真ん中にある教会から
パウロが離れると 古い習慣に戻ってしまい
新しい御国の習慣に入るようにと
励ます手紙だったとわかったのです
最近 ある姉妹からすみちゃんパウロだよねと
言われて 薄々感じてはいたけどやっぱり
そうだよねぇ と苦笑いしていたのですが
本当にそうだったんだな と改めて思いました
ですがそれを通して私自身も古い習慣から
より一層離れることが出来たと思います
何故なら教えることで自分自身の学びが
完成するという側面があるからです
教わってわかったつもりでいても
人に説明しようとした時に言えないなら
実はきちんとわかっていなかったと言えます
更に言うと 聖霊さまに促されて教える時
私の知恵知識を超えたことを聖霊さまが
語っていることが殆どなので
自分が紡いだ言葉から学ぶこともあります
教えにしろ行いにしろ 後継者が育って
本物だと言われていますから
自分の学びを完成させる為にも
教えることは大切なのです
その機会を頂けたことに感謝します
ですが今 その季節が終わるというか
ひとつの区切りを見ているとも感じています
人を育てるということだけ考えると
それに終わりはありませんが
しかし私たちが召されていることは
神様との日々を物語と絵に綴ることです
教えるという体験から神様の恵みが
注がれるので それを受け取る必要はありますが
受け取ったことで産まれる物語と絵が
神様から与えられた召しなのです
ただ絵を描くだけではなく
絵に文章を添えること
それを示されてからずっと文章が書けずに
悶々としている日々が続いていたのですが
今日になりやっと それを書くことが出来ました
それは 私たちの手に届かない場所にいる
盗み壊すものに対する神様の解決でした
敵の前で一同が食卓を囲み
神様に感謝の賛美を捧げている時に
恵みと共に その盗み壊すものを
丸飲みにしてしまうものがやって来たのです
それは 私が以前ビジョンで見た
(肉の)父の姿でした
またその文章は りゅうくんの物語から
あるシーン ある登場人物だけに焦点を当て
切り出したようなものでしたが
その要約は 私の賜物だという話を
つい最近していたばかりでした
文章を書くということが若干
プレッシャーに感じていたのですが
祈りの中ですらすら書くことが出来たので
文章も聖霊さまに委ねて書けば
良いだけなんだな と思いました