自分の十字架を背負うために – DIARY WITH GOD

2016.11.04

昨日の記事(愛は高いところから低いところへ)をはじめいくつかの記事で同じテーマについて何度か繰り返し書いているのですが

「責任感」というのは良いように見えて不必要なものに固執する結果になることもあります

単純な話責任感(自分の肉の思い)<神様の指示としていれば間違えは犯さないわけですが

神様と共に歩む人生に入ったとき責任感の故に判断を誤ることもあるわけです

勿論 責任感が強いというパーソナリティ自体は決して悪いことではないはずです

神様のみ恵みを受け取るために

と言いつつ

私は 自分の思い込みを外すために責任を手放して神様に責任を委ねます!という宣言をかなりたくさんしました

また 神様から責任を手放すようにと促されたこともたくさんありました

神様は 私の問題に介入したいと思ってくださっているのに

自分の責任!と固く握りしめていると神様が介入することが出来ないのです

神様はみ恵みを与えたい自分はみ恵みを受け取りたい

お互い相思相愛であるはずなのにそれがうまく流れないという時に

自分の思いを手放す必要が出てきます

両手いっぱいに何か余計なものを掴んでいては み恵みを掴めない

そういう時はあるのです

簡単に手放せるものとそうでないもの

これは私の場合になりますが

特に 自分の失敗により作ってしまった負債人間関係の負債 経済的な負債体調不良にある負債については手放すのに結構時間がかかりました

逆に 霊的負債 代々続く呪いや偶像崇拝などは自分には関係がないことでもあるので私の場合は 手放すのは簡単でした

勿論 逆の人もいると思います

自分がやっていないのに何故自分を低くして神様への介入をお願いしないといけないのか意味が分からない という態度の人も知っています

私の場合はそれが

私が失敗して作った負債なのに何で無関係で聖いイエスさまが背負って苦しまれなければいけないのか意味が分からない と思っていたわけです

クリスチャンは「イエスさまの花嫁」

ですが 聖書を読む限りイエスさまが自分と無関係であるわけはないのです

神様は 私を養子として下さりイエスさまは私を花嫁とされようとしている

あなたの負債を背負って綺麗にすることで私(イエスさま)や父なる神はあなたを手に入れることが出来るのだよ

と 神様は仰られているわけです

罪の負債がなくならなければ天の御国に入ることは出来ないから養子とするには罪を清算しなければいけない

しかし人に罪を清算することは出来ない

そこで罪を一度も犯したことがないイエスさまが登場するわけです

イエスさまは 自分が犠牲になることでこの子が神様の元に帰れるのなら と喜んでご自身を捧げてくださったのです

そして神様は その私たちをイエスさまの花嫁とすることを約束されているのです

イエスさまは 未来の花嫁のために自分を犠牲にしてくださった

故に 私たちはイエスさまのものとして天の御国に入る資格があるものであり続けたい

聖くありたいと徐々に願うようになるのです

大いなるご計画は神様のためのもの

しかし 聖くありたい と思うようになるのは私たちの肉の思いの話であり

神様は もっと違う思いを私たちに与えたいと思っておられます

それは この地には神様の選びの子がたくさんいるのに彼らがまだ神様のことを知らないので

その人たちに 神様の思いとイエスさまの贖いを伝えたい

という思いです

この素晴らしい知らせは人を 言葉を介してしか伝わることがない

なので 神の子どもとなりたくさんの恵みを受け取って神様ってこんなに素晴らしい方!

ということを 周囲に伝えてほしいのです

永遠の命の視点で言うなら

神様の素晴らしさを経験して神を礼拝し 賛美するために私たちは命を与えられている

それを ただ神を賛美するためだけにではなく周囲の人にも伝えてほしいというのが神様の思いであるのです

それは人数の問題ではありません

ただ 神様があなたを通して伝えようと定めている人に伝えてほしいと思われているのです

神様の思いを伝える器として

いずれにせよ

神様の素晴らしさを経験しなければ天の御国の素晴らしさを伝えることは出来ません

ですから

責任感であるとか 肉の思いを超えて神様に従順であってほしいと神様は願っておられる

何故なら

神様の声に忠実に従う時神様の栄光があなたを通して地に流れ出ることになるからです

自分の思いではなく 神様の思いを選び自分の範囲で小さくまとまるのではなく神様に新しい道を切り開いていただく

私たちは ただついていくだけですがついていく先は 見知らぬ栄光の土地で

もしかしたら強い敵が見えるかもしれない自分には大きすぎる恵みだと思うかもしれない

それでも 神様は先に行き全ての敵を打ってくれています

大きすぎると思うみ恵みも管理する力や助け人を与えてくださいます

神様の大いなる素晴らしさを経験するためには神様による聖めと意識の変革が求められることがありますし

患難も伴うかもしれない

それでも決して倒れることはないという聖書のみ言葉を信じ 従順に従う

その歩みは あなたの十字架を背負う歩みとなります

より大きなものを管理したいと思ったら自分一人では足りず人脈が必要になりますし

より大きな愛が欲しいと思ったら愛をブロックしている心の壁を取り去る必要がある

より多くのものを与えたいと思ったらより多くの恵みを受け取るためのチャレンジがあるし

より大きく愛を流したいと思ったら愛を流すべき人に会いに行くために安全な場所から出なければいけない

チャレンジは ありますですがそれは信仰のチャレンジです

マザーテレサも 修道院の外で人を助ける活動をしようという思いが与えられて許可が出た時 手元には5ルピー(200 円)しか手元にありませんでした

自分には到底無理のように思うかもしれないけど神様にはすべてが可能なのです

イザヤ書55章8-13節「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」

記事一覧へ戻る