神様の作品としての命 – DIARY WITH GOD
2016.11.20
今日は感謝祭記念礼拝ということで礼拝全体に「感謝」の雰囲気が満ちていました
勿論 神様に感謝することは大小全てを集めれば星の数ほどあると言っても過言ではなく
日々感謝を捧げているわけですが
賛美の最中に神様が語られたことは私にとっては物凄く意外なことでした
そのままを愛するという真意
それは一言で表すなら自分自身の存在に対する感謝 でした
神様がくださった賜物一つ一つを取り上げて
あなたはこんな賜物を持っているこんな賜物まで与えられているそして神のイメージの通りにこのように造られた
あなたはこんなにも素晴らしく造られたそのことに感謝をして欲しい
という語り掛けを受けました
神様の気持ちを考えたらこのことはよくわかります
神様は 私たちをご自身のイメージ通りに造られ神様の御手で守りながら大切に育ててくださっている
神様にしてみたら 私たちはひとりひとり素晴らしいご自身の作品でご自身の独り子を与えるほどに愛してくださっている
こんなに素晴らしく造ったのだからそのことにまず感謝をして欲しい
と 思われるのは 創造された方として当然であるように思います
が 自分自身が素晴らしく造られたことに感謝をして!なんて言われてしまったら
流石に赤面&余りあるお言葉ですーなんて一瞬ドン引きしてしまいそうな思いがありました
が
神様の言葉というのは癒しと解放をもたらす言葉なのです
神様の思いが自分の中に入ってきた時
「自分が素晴らしい」と思うことをタブー視しようとしている理由に思い違いがあることに気が付いたのです
恐れは敵の罠
示された賜物を持っていることは今までに何度も人からも示されていたし自分自身としても自覚をしていましたが
自分の中で これは神様のものなので自分のものだと思ってはいけない
という妙な思い込みがありました
というのも それが自分のものだと思い高慢になることが嫌…というか高慢になることを恐れていたからです
ですが神様から示されて
自分が神様のイメージ通りに造られ神様が与えたいと思ってくださった賜物を持ち神様のために用いてもらっている
そのことに感謝をする という思いが自分の中に流れ込んできた時に
与えてくださったのは神様だときちんとわかっているのに何で自分だけで生きているような高慢になることがあるのか
与えてくださった神様に感謝して喜んでいる方が余程素晴らしいじゃないか
ということに目が開けたのです
要するに「高慢になるかもしれない」と恐れていたこと自体が 敵の思惑だったということに気が付かされたのです
また このことに気付いたのと同時に
きちんと神様から 高慢にならないようにストッパーを頂けていることにも気が付きました
嘘をついたり隠しごとをしない限りこれはどう考えても神様のなさったことだと言い表すことが出来るようにきちんと全てのものを与えてくださるのです
恐れる必要は全くなかった ということです
聖書に書かれている通り恐れというのは神様から出たものではないということですね…
テモテへの手紙第二1章7節神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
警戒する ということは良さそうに見えて案外 敵の嘘に既に引っかかっているだけ
ということなのかもしれません
神様はあなたにどう生きて欲しいのか
このことにより
神様からストップがかかることについて物凄く重要な意味があることに気が付きました
それは 神様が造られた私のイメージから外れたことはやって欲しくない ということです
今まで私は 目的のためには自分の思いを曲げる必要も時にはある と思ってきました
実際 自分であまり納得いかない役回りでも仕事だから仕方がないと思ってこなしてしまうことが多くありました
それは大変なストレスですし他人の利益のために自分自身がそこまでするいわれは全くないのです
本当はやりたくないのに我慢してやることに何の価値もないのです
喜んで愛を持ってやることだけに価値があるのです
神様がお持ちの思いはただひとつ
ご自身が造られたイメージと違うことに折角与えた賜物を用いないで欲しい
お金のためだからダメなのではなく神様のイメージから外れているからやってはいけない ということで
それはセルフイメージを歪めることであり神様が造られたものを壊すことである
と いうことなんだなぁと思いました
神様の作品としての命
神様が育てたい私というのは神様がイメージした通りの私であり
神様が愛してくださる私というのも神様がイメージした通りの私なのです
神様の素晴らしさ 栄光を現そうとするなら神様が造ったままの私でなければいけない
そうではない私がどんなに賜物を用いてもそれは神様の御業とはなり得ない
神様の作品としての私でなければ
どんなに素晴らしい賜物を頂いていてもそれを神様のために用いたとしても全く神様の栄光が現れない
ということなんだろうなぁ と思います
まだ 気が付いたばかりのことなのでそうなんだろうなぁ という仮定止まりなのですが
神様のイメージ通りの私に神様が何をして欲しいのか
もっと言うなら どういう水準でどういうクオリティレベルでどの辺に落としどころを付けてやっていけばいいのか 等々でしょうか
詳細について 引き続き神様に祈り求めていきたいと思います