創造への召し – DIARY WITH GOD

2016.11.13

これは はっきりと誰かに教わったとかではなく周囲の人たちや 教会にメッセージに来られるビジネスマンクリスチャンのお話を聞いていて感じることなのですが

社会において仕事をする召しがあるクリスチャンには大きく分けて2種類いると感じています

それは

この世に出ていき 周囲を神の国の文化に塗り替えていく人と

神様が与えられた仕事に献身する人です

祈りでこの世を塗り替える人

多くの人は 前者の「この世に出ていき周囲を神の国の文化に塗り替えていく人」に該当すると思います

今働いている環境に 神の国の文化を持って行きその場を神の御国へ染め変えていくことに召された人たちです

問題に対して祈ることで神様に介入してもらったり自分自身が神様に作り替えられることで周囲の人に神様への関心を持ってもらい福音へと導く という召しがある人たちです

とある牧師さんのお話では9割近いクリスチャンがこちらに該当するそうです

神に献身する人

そして残りの1割が牧師 宣教師 伝道師として神様が与えられた仕事に献身する人で

献金により生計を立てる人のことをこの時は仰られていました

ですが私は 牧師 宣教師 伝道師などのいわゆる役職者とは別の形で「神様が与えられた仕事に献身する人」が存在しているように感じています

例えば森永製菓の創始者 森永太一郎などはその好例のように思います

森永太一郎の伝道

何をやっても上手くいかず落ち込んでいた時たまたま貰ったキャンディーの美味しさに感動して洋菓子職人になろうと渡米し

渡米した先でクリスチャンになり伝道師になりたい!と思いを与えられ

帰国して身内に福音を伝えようとするも相手にされないどころか離縁されてしまい

失意の中 再び渡米し酷い差別の中でなんとか製菓の技術を学び

帰国して屋台でお菓子屋さんを始めますがその時の屋台の屋根には

「キリスト・イエス罪人を救わんために 世に来たりたまえり。 義は国を高くし罪は民をはずかしむ」 引用元:キリスト教人物伝 森永太一郎(1852-1910)

と書かれており有名になったそうです

希望の先にあったビジネス

森永太一郎は まず最初に失望の中でお菓子職人になるという希望が与えられますが

導かれた先でクリスチャンになり伝道師になりたい!という新たな希望を与えられました

しかし伝道師になることには失敗し再びお菓子職人を目指しますが

それを自分のためのビジネスにはせずイエスさまを伝えるためのビジネスとしたのです

森永太一郎は 神様の御手により新しいビジネスを創造して神様の栄光を現すご計画に対して「献身」したのであり

この世を(祈りにより)緩やかに神の国の文化に塗り替えていくことに召された人とはニュアンスが違い

この世に対して 神という存在を持って切り込んでいく召しが与えられた人でありそこには創造が伴うように感じます

また 目的が神様のためであって自分の喜びのためではないことも特徴的だと思います

言うなれば

子どもの頃からお菓子職人に憧れていて祈って祈って 人とのご縁や良い先生との出会いが与えられてお菓子職人になれた!神様ありがとう!

という栄光の現し方ではなくて

神様から 突然お菓子職人になろうという希望が降ってきて 渡米までしてしまい物凄い苦境の中で揉まれまくるのだけど

でもその希望を掴んでいるからどんな苦しみの中でも耐えられて

神様の栄光を現すために神様と永遠に歩き続ける という感じです

「イエスさまに似た者」という概念

神様に突然満たされてその道に行こうと歩き始めた人たちのお話(証)を聞いていると 漏れなく

どうしてこんな苦しみを通るのだろう神様なぜですか!!と叫ぶような苦境を通るのだけど

その苦しみの中で神に出逢い新しい創造が為されることを目撃します

今日は その出逢いを「美」と表現されるアーティストのマコト フジムラさんが礼拝でメッセージをしてくださったのですが

創造主である神は私たちが必要だから造られたのではない

必要ないものを 愛を持って創造されたそれは 人に創造させるためだとフジムラさんは語られました

そして そのイエスさまこそが創造主であられると聖書には書かれています

コロサイ人への手紙1章16-17節万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。

フジムラさんの師がこう語られたそうです

救い主としてのイエスさまをあなたは受け入れてましたね

では 創造主としてのイエスさまをあなたは受け入れていますか?

救い主としてイエスさまに似た者となるという思いを抱いている人は多いですが

創造主としてのイエスさまに似た者となるという概念は受け入れていますか?

という問いかけです

創造による伝道

遠藤周作の「沈黙」という作品は正に 弱さの中で神と出逢うことを文学という作品で描いたものなのだそうです

日本のキリシタン禁令における宣教の失敗を描いた作品であることから日本人クリスチャンには敬遠されていた作品であるそうなのですが

しかし 弱さの中にこそ神様が現れるという事実がはっきりと描かれており

そのことに励まされる人が多くいたためにこの作品は多くの人に読まれました

遠藤周作自身 人生において大変な孤独と苦しみの中に生きた人なのだそうですが

遠藤周作の影響を受けた当時の日本人純文学者のクリスチャン比率は世界一であったそうで

文学という領域での創造により彼はイエスを伝えることに成功したのです

日本人にある美意識

イエスさまが示された「犠牲の愛」を日本人は特に色濃く持っていて特別な召しが日本人にはあるとフジムラさんは感じられているそうです

確かにその視点で日本人の働き方を見ると色々と思うことがありますし

日本人がモノ作りという領域で世界に知られていることも神様のご計画と関係があるのかもしれませんね

尚 「沈黙-サイレンス」はハリウッド映画となり日本でも2017年1月に公開されるそうですのでご興味ある方はチェックしてみてください

フジムラさんも関連書籍として「沈黙と美」という本を出版することが決まっているそうです

詳しくはフジムラさんのツイッターでアナウンスされると思うのでこちらもチェックしてみてください

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