子どものような信仰 – DIARY WITH GOD
2017.01.15
今日の礼拝も クリスゴア牧師をはじめベテル教会の皆さんがメッセージとお祈りの奉仕をしてくださいました
今日はクリスチャンではない人も参加される日曜礼拝だったこともあり信仰生活を生活に適用するヒントとなるような具体的なご自身の体験に基づくお話でした
昨日までのヒーリングスクールのお話と今日のお話の全てを聞いて
自分には徹底出来ていない部分があるなと感じたことがありました
それは 子どものような信仰を持つことです
ある面では私は大変子どものような信仰を持っています預言されたことや啓示を受けたことについてはそのままをただ受け入れるのです
ですが 聖書のみことばの適用についてはイスラエルの人や滅びが定められた人にも向けられており その取捨がきちんと出来ない故に
どれをどこまで自分に適用していいのかわからないと思っていた節がありました
預言や啓示 或いは預言的に聖書のみことばを示される時も
それは個人的なことであるので全部をそのままに受け入れていたのです
ですが今は どれが私たちに向けての言葉であるか取捨出来るほどに聖書の学びも 神様との関係も深くなっていますし
間違えた神学というのがどういうものであるかをこの2日で十分理解したので
今までのように聖書を読む必要もないし今までのように斜に構える必要もないということがわかります
が
まずは今知っているみ言葉や今のお祈りや日常生活にその信仰を適用しようと思った時に
子どもらしさが足りてない!と思ったのです
そもそもで 私は幼い頃から子どもらしさがありませんでした
俗にいうアダルトチルドレンだったわけです
クリスチャンになってすぐの頃は聖書で言っている親というものがどういうものかわからず子どもらしくあれと言われてもどうあればいいのかわからず
子どものようでありなさいと言われると悲しくなって泣いてばかりでした
そして
つい一か月ほど前に見た木の家のビジョンでイエスさまがお母さんとして出て来られて神様との関係を見た時にやっと 親というものが理解出来たのです
※神様に目を向ける(前編) 神様に目を向ける(後編)参照
その時からやっと 子どもらしくいるということを学び始めたばかりなのです
今の自分は子どもらしくないところがあると気が付いたということは
子どもらしいがやっとわかってきた ということなのです
私に欠落している一番大きな要素は親を頼りに生きる経験がなかったことです
しかし外に頼れるものがあったかと言えばそうではありません
道を探して歩いている人やさ迷っている人はいましたが「本当の解決」を知っている人は誰もいませんでした
故に まだ見ぬ神を思い神様にしか私の問題は解決できない神様しか頼れるものはないと結論付けてここまで来たわけですが
頭では 神様にしか頼れるものはないとわかっているし 口でも言っているのに
そもそもで頼るということがどういうことかがわからないので頭を抱えていた節があるのですが
子どもというのは世界がそんなに広くありませんもしかしたら世界は家族と学校だけで本当に信頼できる人は親だけかもしれない
頼れるのが親だけであるなら自分はどんな態度でいるだろうか親に何を求めるだろうか
そういうのを 木の家のビジョンの中で実体験のように学んでいたのですが
昨日の解放で 初めて心が完全に無防備な子どものような状態を知ることが出来たのです
一度体験をすればあとは余計なものを排除するだけです
沿って行くのでも学ぶのでもなく排除していく作業でそれこそイエスさまにお願いするところだと思っています
私の中の一番の問題は親は完ぺきでも 私の不完全さにより失敗するのではないか という恐れです
これについては 今まで
祈って祈って祈り倒していました
自分が出ないように 神様の栄光だけが現れるように とひれ伏して祈っていましたし
失敗したってマイナスをプラスにしてくださる神様を信じて祈りました
それにより 確かに結果は伴いましたが
この態度は子どもじゃないですよね(苦笑
責任を手放し 委ねること
責任はとるよって言われてるんだからそこを信じなければいけないのですよね
勿論 それが手放せない理由は失敗した時の嫌な体験から来るので心の癒しの問題なのかもしれませんが
それにしたって神様を信じない理由にはなりません
失敗してもいいからやりなさいーと 言われるのはこの辺りかなぁ と思いました