「いのちが与えられますように」 – DIARY WITH GOD
2016.08.17
アダムが造られたとき 神様は直接アダムの鼻に息を吹き込み 命を与えられた
アダムが罪を犯したことによりその命が失われ 「死」が入り
人は生まれながらにして罪を犯す性質を持ってしまった
それが 「原罪」です
悪いことから離れて幸せになりたいそう願うなら 神様は必ず命をくださいます
今日の示しは あまり楽しくないお話で若干書きにくいのですが まあ仕方がない
最近 お気に入りの祈りの言葉があります
それは 「いのちが与えられますように」
洗礼を受ける前 私たちはアダムとエバの原罪により全ての人が 霊において死んでいました
その虚しさを
お酒やらお金やら若さやら名誉やら人の悟りやらの虚構で埋めようとしても 満ち足りることはない
表面的には栄華を手にしたとしても裏ではいつも 何か欠けた感じがする
それを 忙しさや遊興 人によっては自分より弱いものを卑しめることで埋めようとする
その 唯一の解決が 愛であり
愛に満たされている人は例えどんな境遇であっても希望と喜びに満たされる
愛とは神様のご性質そのもので
神は愛
人は本来 神様と共に生きるように造られたものですが
知恵の実を食べたとき罪が入った時に
自らの知恵に頼るようになりそこから苦しみが始まった
でも
イエスさまのあがないを受け入れて神様との関係を回復してもらったなら
知恵や欲に頼るのを辞めて神様の愛に頼るようになったときに
神様は 善に報い悪を叱りつけて裁いてくださるのを見る
善なる者に 完全な勝利と権威があることを知り 体験出来ることは 本当に恵みです
…と 言う話は 今だから出来る話で
私もクリスチャンになる前は悪が力を持ち 不条理の中でただ堪え忍ぶしかない時があった
特に 幼い頃や胎児の頃に受けた身内からの虐めとかに対しては
虐められたとしても 生きるために我慢するしかなかったわけで
我慢する癖 達観する癖がついていてそれに対して怒りとか感じたこともないわけです
みんな大変だからね
という言葉に殺されるわけです
その結果
完全に死んでいる自分が自分の中にいることになる
しかも それはただ大人しく死んでいるだけではない
死の性質というのは 罪を犯すのです
勿論 本当に罪を犯すかどうかは別問題なのだけど 罪を犯す性質が自分の中で死んで横たわっている
それを 理性で押さえてコントロールするのが大人
というのがこの世の中なわけです
けど
神様は
コントロールを手放して生きろ と仰るのです
死んでいるな 生きろわたしがいのちを吹き込むから
と
クリスチャンになっても自分でコントロールをしたがる人がたくさんいます
それは 私からして見ると
神様の恵みを邪魔するものと映ります私の目には その様に見えます
で ずーっと どう祈ればいいのかなぁ?と 思っていたわけです
そしたら 神様が教えてくださったのがこの「いのちか与えられますように」
という祈りだった
神様の働きを邪魔することは寛大な神様の前には「死に至らない罪」です
そんな 死に至らない罪をも全ていのちを得ることが出来ますように
幼い頃の 覚えてもいないような心の傷をも全て 神様の息吹でいのちを得ることが出来ますように
また まだいのちを得ていない人にいのちが与えられますように
私の中に まだ死んだところがあるならいのちが与えられますように…
全ては 神様のみこころのままに聖霊さまのみこころのままに自由にいのちが与えられますように
アーメン