神様が取り返してくださったものを守る動機 – DIARY WITH GOD
2021.11.11
今、神様から示されてこの日記ブログを最初から全部読みなおしています
読み直すだけではなく編纂するのが目的なのでラベルを付けたりポイントをメモしたり色々しているのですが
1記事、当時の私はまだ奥深さを知らないままに書いていた記事がありました
それは「イエスさまは信じたけどイエスさまのようには生きたくない」という人がいるというお話です
元の記事はこれなのですが
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イエスさまの似姿に作り替えられるというのはクリスチャンリーダーがよく言っているような外に出て行って癒しと解放とよみがえりをして弟子を取って教育して
といったことが全てではないということです
イエスさまに救われてついていきたいと言ったのに自分の家に帰って証しなさいとイエスさまに言われた人もいるわけですし(むしろ そういう人の方が絶対に多いです)
イエスさまの似姿に作り替えられるというのは大宣教命令に歩くことが全てではなく
自分に与えられた預言を掴んでその道に歩むことであって
イエスさまがやったのと同じことをしなさいというのとはちょっと違うんじゃないか?
と 思うわけです
というより、イエスさまがなさったことを神様の目線で解釈すればそれは「預言の成就に忠実に歩まれた」なのではないか?と思うのです
イエスさまは(旧約聖書を通して)たくさんの預言を受けて地に命を受けて預言の通りに生きることに忠実でした
預言の成就に関する台詞も多くあります
イスカリオテのユダに対しても(自分を売るものだとわかっていながら)自分のやるべきことをやりなさいと送り出しています
自分の身に何が起きるのかを知っていながら預言の成就を優先させていたわけです
イエスさまは、神様がやりたいことをしていて自分のやりたいことは一つもやっていないとまで仰られています
自分にとっては苦しいことでも神様が預言されていることだからそうする
それはでも 神様がどれほどに自分を愛してくださっているかをわかっていないと難しいかもしれませんが
そういった生き方をすることによってイエスキリストの似姿に作り替えられていく
それが神様との関係の過程だと思うわけです
上記の引用元の記事にはこのことがちょっと違う角度で同じことが書かれていました
5年前に神様から示されたことにより私が理解したのはこうだった、って話ですが
イエスさまのようになりたくないという人は神様よりも自分を愛しているんだなー
というニュアンスで書いています
ですが今ならこう思います
神の義に生きることで得られるはずの約束を敵の誘惑により奪われていることに気付いてないんだな
勿論、わかった上で誘惑の方がいいという人もいるにはいるので 最終的には自由意思としか言いようがないのですけど
神様は 人が敵に奪われた権威をイエスさまを犠牲にしてまで取り返してくださった
折角取り返してくださったものを敵に奪われたままでいるのは不愉快なので私は神様につくのです
何故なら神様程に真実で誠実で信頼出来て自分のことを本気で考えて本気で愛してくださって命までささげられた方は他にいないから
最近神様から示されていることは「愛が動機でなければ何の意味も価値もない」
それがこの世界を創られた方のみこころでそれがこの地における全てなのだと思います