心の目を覚ます – DIARY WITH GOD

2016.12.28

一昨日の記事(神様との親しい会話のために)で

神様が至急で呼びかけておられるのを「ふと心に浮かぶ」という形できちんとキャッチしているにもかかわらず気のせいかな?とスルーしてしまうことがある

ということを書きましたが

神様の呼び掛けを見落とさなくなるようになるためにはある程度 訓練の期間が必要であると感じます

神様からの示しの変化

神様との新しい関係で 我が家における神様との関係が変わったことを書きましたが

今までは 私が神様から示しを受けて祈ったり りゅうくんに伝えたりするという流れだったのが

りゅうくんが神様から示しを受けてりゅうくんが祈ることで方向性が決まっていくという流れに変わったので

私自身が今までのように明確な示しを受けることがなくなりました

とは言え示しが皆無になったのではなく

まず神様はりゅうくんに示されるのですがスルーされると私の方に示しをくださるので

今までに比べて示されるタイミングが少し遅れるのです

それも 今までのように「出来事」のためにリアルタイムに示されるのではなく

りゅうくんに教えるために示されるのです

神様が身につけさせたいもの

今日1日でもりゅうくんはかなり神様からの示しをスルーしてくれて

その都度 りゅうくんが取りこぼした分を拾うために頭を抱えることになったのですが

最後の最後にやっと 一番の問題に気付きました

それは「祈り」です

思いが与えられた時 即座に祈るという習慣がまだりゅうくんにないのです

しかし 何故頭を抱えることになったのかと言えば私自身に りゅうくんを建て上げるという自覚が薄いせいであったりもします

本音としては 旦那さまにはリードして欲しいでもまだりゅうくんは 私の弟子ポジションなのです

私が彼を導いていますし私が教えるのは当然と言えば当然なのですがでも 私もりゅうくんも自分たちが師弟関係にあるという自覚は薄いです

そもそもで私が 教師然とするのが好きじゃないのも大きいわけですが

しかし今日の神様からの語り掛けは「きちんと教えなさい」でした

これは りゅうくんに対してだけではありません

誰かを導いたり教えたりすることを半年前ぐらいから示されているのです

完全にコミット出来たのはごく最近ではあるのですけど

もし 私がこの示しに対して目をそらすようなことがあれば それが「眠っている状態」であると言えます

幸い(?)私自身は示しに対して真っ向から対峙するタイプなので神様と格闘になることはあっても眠ることはないのですが(苦笑

しかしりゅうくんについては寝てるかな…と思わなくもなく

「示されたら祈るんだよ」と教えても思い巡らせることだけで終わってしまいなかなか祈りまでいくことが出来ません

それに対して忍耐強く 神様に尋ねながら教えなければいけないのです

その時の神様の声が

目を覚ましているように教えなさい

だったのでした^^;

10人の花嫁の例えを知っていながら油を買い忘れるようではいけないよ

ということです(マタイの福音書25章1~13節参照)

自分が今 何をするものであるかというアイデンティティをしっかり掴むまでは習慣化についてのレクチャーが続くようです…

それも「在り方」というところから です

今のりゅうくんの場合は 祭司という役目をしっかり掴むことを示されています

聖霊を受けたものは全員祭司としての任を持っていると聖書には書かれていますが

祭司というのは 人々の悩みや問題について神様に祈ったり ご意見を伺う立場でした

なのに祭司が神様にお伺いを立てなくてどうするの

という感じであるわけです

まず 思いが与えられた時に祈る習慣付けとお祈りの課題を書き出す練習かな と思っています

いつまでも私がお守りをするわけにいかないから自分で出来るようにしていかないとね…

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