一人一人に違う愛 – DIARY WITH GOD

2021.11.17

引き続き 愛と情熱を注げることというのが具体的にどういうものであるかについて模索中だったのですが

そもそもで私にとっての「愛と情熱」がどういうものであるかということを理解する必要があるように感じました

まず前提として神様が注いでくださる愛と情熱の他に本物の愛と情熱と呼べるものはありません

私がそれをずっと感じ続けていてそれを注ぎ続けることが出来るか?

と言ったら正直無理だと思います

神様の愛と情熱を感じる時潰されそうになるほどだからです

りゅうくんが神様から思いを与えられるとき心臓が潰れそう と言いますが本当にそんな感じです

あんな思いをずっと抱き続けてるのは人には無理だと思います

(伝道の賜物を与えられている人はいつもそんな思いに駆られて動くそうですが)

また もう一つ思うのが愛と執着は違うということです

執着を愛と勘違いする人は結構多いと感じますが過去 それで傷付けられることも多々あったので そういうのは単純に自他ともに避けたいです

では愛とはなんだ と考えたとき

神様は人を一人一人ユニークに作られてその人により現れが違うと考えると私には 私に現わされている神様の愛というものがあるだろう

というところに行きつきます

実際 私の愛とりゅうくんの愛は全く違いますし同じだったらそれはそれで気持ち悪いかもしれません

そんな中で 神様から一つ過去の自分の思い違いについて示されることがありました

それは 神様の愛を受け取ることを邪魔しているものを取り除くために必要な示しでした

神様から語られたことをそのまま書きます

あなたは子どもの頃 注がれるべき愛を与えてくれない大人の中でどうしたらそれを得られるかと考えた結果与えれば得られると考え一所懸命人に与えようとしていた

愛は与えれば得られるようなものではない愛はただ一方的に注がれるものだから与えることで得られるものではない

愛を与えようとすることを止めなさい

聖書の中、ルカによる福音書の6章で

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。

というものがありますがこれは別に愛について言っているわけではなく単純に 与えるものは与えられるということを言っているだけです

これは愛とは関係ありません

愛を得ようと全財産を渡そうとする者は軽蔑されるだろうと書かれている通りです

また神様は、

本来無償で注がれるべきはずのものに代償を求められたことが私が愛を理解する妨げになっているということも示されました

ともあれ、愛を受け取ることについても愛に応えることについても全てにおいて 余計なものがあってスムーズに流れていかないのをどうにかしなければならないわけです

与える賜物はあるのだろうし実際あると思うような証もありますが

しかし私が「自分の思いで」与えようとするときに間違えたものが混ざるという感じでしょうか

祈って与える分には何ら問題はないですし与える時には必ず祈っている要するに 神様に完全に頼っていますが

それだけをしていても根本解決にはならず問題は私の内に残ったままで私が健康な状態になることが出来ないのです

だから神様は そこにテコ入れをするため与えることを止めるように示されたのだと思います

が その結果 私が与えたいという思いを利用していた存在がいたことに気付いたのでとても重要なことだったと思います

敵はそうやって 本来神様から受けるものを盗み壊していくのだということです

と 前置きが長くなりましたが

では私にある神様の愛というのはどういうものなのか

と 思い巡らしていたわけではないのですがここ数日 色々な物事を通してそれを語られているのだということに気付きました

私が熱心に集中してやっていたことで周囲の人が動く という出来事がありました

私はただ遊んでいただけですし同じように遊んでいた人は他にもいたのに私が動いたことで動いたのです

また りゅうくんが突然「澄子は根気強い」と言いました

その時はそうだよ と言いましたけど本当にそうなのです 昔から私は物凄い根気強く 集中力があり物事を続けることが出来ると感じますし

預言者を通して あなたは完了させるものだと示されたこともありましたがとにかく やり遂げるということに情熱を注ぐ傾向があります

が 執着はありませんし嫌なものや有意義ではないものに対しては逆に物凄い見切りが早いので

あまり自分が根気強いだとか粘り強いとか言いませんが

適した表現をするなら淡々と延々とやり続けることが出来る

という感じなのです

ひたすらに淡々とやり続けるのであまりそれが愛だの情熱だの思ったことはなかったのですが

どうも それが私に与えられた神様の愛の現れであるような気がします

やってみたい!と飛びつくようなものやこれ続けるのは多分無理途中で嫌になりそうと思うものを排除していけば愛と情熱を注ぐものが見つかりそうな気がします

と いうか

本当は神様から これやりなさいと自分としては物凄く苦手意識があることを示されていて

でもそれが多分そんな感じになるんだろうなぁ と思っています

蛇足ですが

りゅうくんは情熱的に熱狂的に愛を注ぐタイプです

すごいなぁ私にはそういう愛はないなぁと思っていましたが 一緒だと気持ち悪いのでそれでいいということだな と思います

りゅうくんは私が淡々とやり続けるのをすごいと思っていますしね

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