神が愛を注ぐ先 – DIARY WITH GOD

2016.11.05

結論から言ってしまうと

子どものような人に神は愛を注がれます

何も持たない人 社会においては役にも立たぬものと軽く見られる者

或いは人生を破滅させてしまった者自分の力では取り返しがつかないところまで堕ちてしまった者にも 神は愛を注がれます

人の力や社会的な仕組みではどうにも救うことが難しいもの

神様は そういう人たちにこそ愛とみ恵みと憐れみを注がれます

そして 愛が注がれた時

その人の命にある神の目的がその人の人生に現れることを見る

周囲の人は その様子を目の当たりにして神の素晴らしさを褒めたたえる

救いとは 神様の栄光のためにあるのです

弱いものに神は愛を注がれる

神の愛が豊かにあふれるところではそういった 何も持たない人たちが多くを受け また与える喜びを知っていて

真の豊かさを知っている

御国は そういう人たちのものだと聖書には書いてあるのです

無垢な子どもたちは ただ純粋に神様の愛と奇跡を求めます

自らの力に諦めたものはそれでも自分が愛されるということに純粋な驚きを覚えます

心が柔らかいものに神様はご自身を現してくださる

そして 感謝と喜びを知るものは豊かにそれを分け合うことが出来るのです

良い管理者にも神は愛を注がれる

多くを持つ人について神様は お金持ちが救われることはラクダが針の穴を通るよりも難しいと評された

ですが 実際には多くを持ちながら神様のご計画に用いられる人もいます

良い管理者 と言われる人たちです

多くのタラント(お金・賜物)を預けられそれを何倍にも増やした人は主人に褒められます

また

その家のしもべたちを任されて食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべは幸いである という記述もあり

お金を稼ぐことを悪としているのではなく地の管理者として資産を預かる身として身を立てている人を神は喜ばれており

自分が富の所有者だと勘違いをするものに対しイエスさまは「救い難い」と仰られたのです

神の子とされる時に立場は変化する

クリスチャンのアイデンティティは神の国の住人でありこの地上においては寄留者です

洗礼を受けた時に肉の自分は死に天の国の住人としての新しい命を受けこの世においては寄留者となります

洗礼を受ける前まではこの世の支配下に囚われた身でしたが

神様から一時的に地のものを預かり管理するように召された異邦人となります

所有者というアイデンティティから管理者というアイデンティティに変化したことを柔軟に受け入れるとき

良い管理者を 神は大いに祝福されるのです

管理者に与えられた仕事

使徒行伝(使徒の働き)にある「使徒」 という言葉の語源は

当時のイスラエルを支配していたローマ帝国の役職名だったそうです

ローマ帝国は 地を侵略した時に使徒と呼ばれる役職者(監督)を送り込み

町並みから文化から言葉までも全て ローマと似たものに作り替えて皇帝がその町に視察に行く時に備えていたのだそうです

イエスさまが 弟子を使徒と呼んだ理由は

神の国の文化を地に現してイエスさまが再臨される時に備えるように という意味を含んでいるのだそうで

管理者に与えられた仕事はこの御国の文化を地に築きあげることですが

それは 肉の力では為し得ません祈りによってのみ もたらされます

主人が小さなものに遣え世において取るに足らないものに必要の満たしと愛が注がれ

この世の常識に悩み苦しみ心身ともに疲れ果てた人が命を受け 癒されていき

神様から多くを預かるものがより多く増え 地を勝ち取り

霊と誠で神を礼拝するものが毎週のように父の家に集まり互いに愛し合って憩いを得る

それが 神の国の文化でありそれが 自分が住まう場所の常識となる

人には無理ですが神様には可能なのです

神の臨在 聖霊の満たしに飢え乾く人…心の貧しい人 は幸いです

天の御国はその人のものだからです

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