時に適って美しい神様の仕事 – DIARY WITH GOD

2017.07.15

先日 仕事をしていてこのようなことがありました

webサイトに記載された住所変更を依頼しようとして

たまたまあるページを開きながら電話をしたところ

既に修正が終わっている と言うのだけど

私が開いていたたった1ページだけ修正が漏れていて

その場で修正指示を出すことが出来ました

私は意識してそのページを開いたのではなかったので

神様が教えてくださったと思いました

仕事をしていると このようなことは多くあります

複数の違う金額の商品を 適当に

大体これぐらい と値引き価格を決めていき

あとでそれぞれの値引き率を計算したら

一寸違わず同じ値引き率だったこともありました

こういったことは仕事以外でも起こります

特に用はないのに普段行かない場所に行き

特に何かを探しているわけでもないのに

何故かエリア地図を眺めていたら

教会の姉妹がやってきて

道に迷ったから教えて欲しいと

言われたこともありました

私が自分の人生に求めるものは 神様だけです

神様といつも共にいて 神様のなさりたいことを

お手伝いすることだけが私の望みであり

それ以外に興味はありません

神様から与えられた賜物や

その賜物に対する思いはありますが

それ以外に何か思うことは何もないのです

勿論 そのように思う理由はあります

それは 神様の義だけを守っていれば

必要が全て与えられることを

身をもって知っているからです

私に 着たい服や欲しい靴はありません

ですが TPOに合わせた服は必要だし

服に合った靴は必要です

欲しいものはないですが

しかし場に合わない服しか持っていなかったり

服と靴が合わなければみっともないと感じる

美意識は持ちあわせているわけです

と言ってもそれは 人に不快感を与えない程度に

というニュアンスであり

自分が楽で気持ち良く着れて

自分に似合ってさえいれば何でも構いません

これが欲しい という気持ちは薄いものの

これが必要だ ということはわかっているし

これは嫌だ という気持ちはあるのです

なので服を探すにも以前は一苦労でした

これは嫌だ という思いに対して

妥協をしてしまうと結局着ないので

気に入る服が見つかるまで絶対に買わなかったからです

特にお客さんに会うような仕事をしている時は

同じ服を二度連続で着ていくわけにもいかないし

本当に面倒だと思っていました

ですが クリスチャンになってからは

人から服を頂くことも増えましたし

そろそろ服を買わなければいけないと感じると

気に入ったデザインの服がすぐ見つかるようになりました

自分で具体的にそれをイメージしたり

探しに行ったりする必要がないのです

正に 聖書に書いてある通りだったのです

マタイの福音書6章31-34節

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、

何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。

しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに

必要であることを知っておられます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。

あすのことはあすが心配します。

労苦はその日その日に、十分あります。

勿論 自分が何を着るのかを気にして

楽しみにしている人がいることを否定はしません

若い頃は プライベートにおいては

自分の気に入ったブランドの服を買い

新作発表のイベントに参加すると言う

楽しみを持っていたこともありました

ですが その頃に好んでいた全てのものを

神様は 預言的に着ない方が良いと示されたし

他の人にとってはわかりませんが

少なくとも私にとって それは不要のものなのです

神様と自分の趣味 どちらを選ぶかとか

天秤にかけるまでもなく神様を選びます

それに思いや時間を割くことは

勿体ないと思っていることだから

簡単に捨てることが出来るのです

聖書に書いてあるからその通りにしてるというより

私が求めていたことが聖書に書いてあったので

喜んでそれを受け入れたのです

念のため言うと 神様が私に

持ち続けて欲しい趣味については

私が手放そうとしても神様が

やりなさいと示されますから

全員が全員 同じではないことを特筆します

例えば ゲームや音楽 コンテンツについては

神様の御心を現すフィールドとして示されており

それについては服のように

何もしなくても必要が与えられるということはありませんし

神様と共に体験し 積み上げていき

考える力を養われていると感じますし

迫害やいじめがないだけ有難いですけど

「異邦人のスタンダード」を重んじる人とは

会話が全く噛み合いません

そんな遊びなどやめて着る服を気にしなさいよと

言われてしまうわけです

神様の召しを中心に会話が出来ないことは

異邦人である生き難さであり

多くの人たちが その苦しみにより

自分本来の生き方を見つけるのに

苦労をしているのだろうと思います

世の中で 摩擦を少なく生きたいと思えば

神様の言うことより人の言うことを聞く方が楽ですが

人の言うことを聞いて命は得られません

興味がないけど必要なものは

神様の義を第一にしていれば

きちんと神様から与えられます

この事は 自分の本来の仕事の周囲にある

枝葉に苦労している全ての人に朗報であると思います

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