欲しいものを得ることで栄光を帰する – DIARY WITH GOD

2017.02.22

りゅうくんと ただの友達以上の深い会話をするようになった頃

羨ましい と思うことが良くありました

例えば まだ社会経験がないということは社会における間違えた経験がないということです

私は 人生において明らかに失敗とかいうレベルではない取り返しのつかない経験をしています

そういった痛手を負っていないうちに私が若い頃から求め続けていた善悪の判断基準を彼は手にすることが出来たのです

それは とてつもなく羨ましいことだと思いました

しかし実際は 例え判断基準を持っていたとしてもきちんとそれを選択できるかどうかは別問題なのです

りゅうくんを見ていて 知っていれば知っていたで別の葛藤があるのだなぁと思います

しかし もし私が若い頃に判断基準を手にしていたら間違えなくその範囲からはみ出ることはなかったでしょう

私は 自分の欲や思いなんてどうでも良いから賢く生きたい という欲求が強かったからです

そのように生きることが出来たら幸せな人生だったかもしれませんが

今 持っているだけの知恵知識や技術などの人生の経験値は得られなかったと思います

葛藤を持って考えるからこそ得るものというのはあるのです

また 羨ましいと思うことは若さの他にもあります

例えば賜物や約束です

約束については私たちは夫婦なので片方にある約束は相手のものでもありますが

賜物については持っているものが違い私が彼の賜物を羨ましいと思うのと同じようにりゅうくんも私が持つ賜物が羨ましいと感じています

賜物に対する羨望については神の国におけるルールがあります

相手の賜物が羨ましいと思ったら相手を尊敬し その賜物が欲しいと願うことで自分自身もその賜物を貰うことが出来るのです

もし りゅうくんと同じ賜物を他の誰か 友達でも教会の人でも他の人が持っているとしたら 恐らく「すごいね」で終わっていたと思います

りゅうくんにとっても もし私が他人ならあの人と自分は違う で終わっていたと思います

ですが 一緒に人生を歩む相手がそれを持っているということがポイントでした

追いつけない 置いていかれる

と 互いに思ってしまったのです

ですが勿論神様は そのことも折り込み済みで私たちを夫婦とされました

「すごいね」などの他人事で終わらせずに相手が持つ賜物を求めて欲しい

という神様の明確な意図を感じています

実際 結婚当初にいくつか羨ましいと思っていたものについてそれと同じかそれ以上の預言的啓示を私もりゅうくんも頂いています

神様は 求めて欲しいものを求めるように仕向けられる方なのです

もし 神様を知らずに生きていたら良くて無関心 悪ければ妬みや嫉妬という低い次元で終わっていたかもしれない感情も

神様に委ねて期待する生き方をすることで全てを得て生きることが出来るのです

これがもし ただの宗教なら人を羨んではいけない とだけ教えて欲しいと思う本心を捻じ曲げ良い人の振りをするように強制(矯正)されて終わりです

諦めることを強要された上に自分の本心を捻じ曲げられるのです

それは偽善者を作ることに他なりません

そのような 心を拗らせることを神様は全く望んでいません

全てが可能な神様に期待して欲しい!と願って手に入れて充実した人生を送って欲しい

むしろ

人に分け与えるほどに多くのものを得て良いことのために使って欲しい

そして 被造物全てが神様の栄光で輝き創られたことを喜び感謝し神を賛美すること

それが神様が望む世界なのです

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