祈りにある責任 – DIARY WITH GOD

2017.02.28

昨日も書いた通り 祈りには大変力があります

ですが その力を知っているなら祈ることの責任の重大さに気付くことになると思います

それは 祈りの質や量の問題ではありません

祈る内容のことです

例え話をするなら

家の庭に 大きな柿の木が1本生えているとします庭の広さからしてこれ以上の木を植えることは出来ません

そこでもし 柿は飽きちゃったから毎年リンゴが食べられるようになるといいな

と願うとします

その願いをかなえるためにはまず柿の木が伐採されなければいけません

苗木のリンゴが根付きリンゴが実るまで何年もかけて世話をしなければなりません

最初の数年は実をつけることはないでしょう

ですがもし 毎年リンゴが食べられる庭にしたいと本気で思っているのであれば

柿を食べられなくなるという代償は勿論育てる過程も苦労も未来への希望となり

数年後に リンゴが1つ実をつけた時にはその長年の苦労が報われたと大喜びをするのです

ですがもし ただリンゴが食べたかっただけなのにこの庭を変えたいと祈ってしまっていたとしたら

立派な柿の木がなくなりちいさなりんごの苗が植えられた庭を見て

こんなの私は望んでいないこの木はリンゴを実らせないじゃないか酷い庭になってしまった

と 文句を言い始めるのです

もしそうなったら伐採された柿の木がまず怒るでしょう私は何のために切り倒されたのか

そしてリンゴの木も怒ることでしょうあなたが望んだことじゃないか

ついでに言うと庭師も怒るでしょう今回の依頼は一体何だったんだと

実際の話

祈っていた通りになっているにも関わらずそんな大層なことを祈ったつもりはなかったこんなに大変になるとは思わなかった

と ぼやく人を見かけると何とも言えない気分になります

これは出エジプト記におけるヘブル人の神様への態度のことを言っています

リンゴの木を育てたいというのが本気の願いであったのであればリンゴの木が立派な実をつけた時

柿の木は 私が切り倒された甲斐があったと喜びリンゴの木は自分の使命を全う出来たと喜び庭師は自分の仕事が良い実を結んだことを喜ぶでしょう

庭師とは 勿論神様のことです

リンゴの木を一人で育てるのは難しくても神様が一緒に育ててくださるのですから何も心配する必要はないのです

必要であれば

神様になら出来る ということを神様は幾度となく示してくださることでしょう

それこそ モーセに示されたように

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