弱さに現れる栄光 – DIARY WITH GOD

2017.03.06

人の弱いところに 神様が栄光を現してくださる

そのことは 自分の範囲においては体験的にわかっていましたが

神様の領域というのは 私が考える範囲と全く違うことを今日も実感しました

少し前に りゅうくんが私にある物語を書いてくれました

その物語の中では 傷ついた女の子のために神様が 庭をその女の子が好きなお花で埋め尽くして 一緒にお散歩をしようと声をかけてくださるシーンがありました

実は 私は幼い頃から神様に特別に油注いでいただいていることがあります

それは 住む場所の周囲の開拓がとても進むという油注ぎです

正直言うと 別に私が携わって起きることではないのでたまたま そういう開発が起こる場所に魅力を感じて住んでいるだけだと思っていましたが

りゅうくんが神様から受け取ったメッセージによると神様が私のために開発を進めてくださっているそうなのです

勿論 それは大変時間のかかることですが確かに クリスチャンになってからは特に顕著に私好みのお店が出来たり 駅や駅周辺の整備が進んでいます

それが 霊的に言うと 神様が私好みの花園を造ってくださっている ということで

それは私に対する慰めであると仰るのです

住む場所が生き生きと開発されることが私の慰めとなる というのはよくわかります

街の雰囲気が停滞していると心も沈みますしお店が繁盛していたり 人が笑顔で活気があるとそれだけでとても元気になります

誰でも多かれ少なかれそうだと思いますが私は感受性 共感する力が強くて影響を受けやすいように感じます

あまりにも私とは社会的にも関係がないことのように感じていたのですが

しかし よく考えると私は住んでいる土地に対してよく祈るのです

疲れているような人 イライラした人ギャンブルに明け暮れる人怪我や体調不良を抱えているような人

そういう人を見れば必ず祈ります

また 祈るだけではなく思いを馳せることも多いです

喫茶店やファミレスでどんな話題が為されているのかに耳を傾けその地域に住む人の傾向について考えます

曜日と時間帯でどんな人が多く街に居るのかを見て人が入っていないお店を見ればどんな店であれば需要があるのかと考えます

単純に そういうのが好きなのだと思いますが

そうやって気にかけてそこで生活する人のことを思い街が発展することを祈ることは私にとって とても普通のことです

なので 全く意識をしていませんでしたが

この事について 神様は神様が私のためにただ為してくださっているだけではなく私に祈りで手伝ってもらっているという思いを持ってくださっているようなのです

私にしてみれば 神様が見せてくださったことに期待と希望を持って 神様 もっともっと!と言っているだけのように思うのですけど(苦笑

それを 神様が喜んでくださっているということみたいなのです

そして冒頭の話題に戻ります

弱さに栄光を現してくださる ということについて

私は(前にも書きましたが)社会的に 失敗という表現で片づけるには取り返しのつかないようなことを積み重ねて来てしまっています

そしてそれは どんなにイエスさまが贖ってくださったとしても起きてしまった事実が消えることはありません

故に 全く社会的に経験がないりゅうくんのことを羨ましいと思った ということを書きましたが

神様は りゅうくんが失敗をしないことで私を慰めようとされているのだと示してくださいました

正直言うと りゅうくんはかなり意識が甘く 向き合う力もありません

なので最初のうちは 大変私の負担となっていました

ですが それを神様に強められてしっかり建てあげられています

りゅうくんと神様との関係が深まるにつれて私の心理的な負担は軽くなり 安心が与えられます

神様に任せておけば大丈夫 ということではありません祈りや(神様から示されて)教えることで神様が為さることに参加しています

正直 邪魔をしていないかとかなり心配なのですが

しかし 今日の神様からの示しはこうでした

敵の手口は 既にあるものを疑わせたり既に持っているものをまるで持っていないかのように思わせるものですあなたの中には確かに まだ消化しきれていない思いがありますですがそれは 私の愛 私の与えるもの私との時間よりも大切なものですか?りゅうに今築き上げている誠実さそれはあなたの弱いところの建て上げでもありますあなたは 人の問題をすぐに背負ってしまうでもそれは人を強くはしませんあなたは祈ればいいのです あとは私がやります自分が背負おうとしてはいけませんしあなたに背負わせようとする世の力に怒りを持つ必要もありません何故なら 私が全てするのですから

そう 私のこの背負う性質というのは人から背負わされて 怒りと共に形成してきた間違えた性質なのです

神様は 怒りを手放せとも背負わせた人を許せとも言われません

何故なら私は背負わされたこと自体に怒りを持っているのではなく

人が神様に頼らずに私に頼ることを怒っているからなのです

しかし 以前の私にはそれが言えませんでした

何故なら 以前の私には神様のことがわかっていなかったからです

ですが 今の私には聖書があり模範となる師がたくさんいます

人から頼られた時 神様の臨在をその人に渡すのは確かに私たちの役割なのです

神様により今 その経験(練習)が出来ていることに本当に感謝します

記事一覧へ戻る