「人ではなく神を見る」の真意 – DIARY WITH GOD
2017.01.16
今日のQTでは かなり目から鱗の啓示を頂きました
神様と自分との個人的な関係と兄弟姉妹との横のつながりという2軸についてはわかっていたのですが
人の権威とその流れという人間関係の縦の流れについてそれも神様が造られたということの意味がやっと理解出来ました
聖書に 昔の人は信仰の故に称賛されたということが書かれています
今の世は クリスゴア牧師の表現を借りるならパフォーマンス志向 この場合は良い行いをしたら良い結果(神様から恵み)を貰えるという考え方のことです
これについては以前も少し書きましたが(神様に心を向ける参照)土着の宗教を含めたあらゆる宗教でこのような考え方が存在しています
ですが 神様は人が自分自身を誇らないようにただ恵みの故に栄光を現す方であり
良いことをしたからその人に神様の栄光が現れるのではなく
神様の栄光を現す器として相応しいものに神様は栄光を現されます
イエスさまの母のマリヤは良いことをしたから神様の母として選ばれたでしょうか?
ダビデは良いことをしたから王として選ばれたでしょうか
ダビデの子ソロモンはどうでしょう
アブラハムはどうでしょうイサクはどうでしょうヤコブはどうでしょう
選ばれた後の素晴らしさに目が行きがちですがそもそもの選ばれた基準は何だったのか
モーセに至っては 人を殺して40年も逃げていた80歳のおじいちゃんでしかも話すのが苦手でした
なのに 大変高い軍事力を持った大国の奴隷となっていた100万人近い人々を解放するために王との交渉役として
更に連れ出した100万もの人を砂漠で養うというミッションのリーダーとしてモーセは選ばれました
人間の目で見たら どう考えてもミッションに適した人ではありません
でも 選ばれました
その理由は モーセの心にあります
自分自身はエジプトの王家の養子となりながらも自分がヘブル人であることを忘れず同胞のために犯罪を犯すほどにヘブル人を救いたいという思いがあったからです
モーセの(心労を含めた)苦労を考えたらモーセの賜物は欲しくないと言う人がいるのもわかります
ですが 神様が彼を通して表された栄光はどんなものだったでしょうか
当時一番の大きな軍国から奴隷を解放しました
100万人近い人を砂漠で飢えさせることなく養いました
人々を管理するリーダーを任命し神の御霊がその人たちに流れました
ですが最後の最後
神様が「あなたは、彼らのために岩から水を出し会衆とその家畜に飲ませよ。」と仰ったのに
「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
と会衆に向かって言ったためにモーセは約束の地に入れませんでした
岩から水は出ましたですがモーセが会衆に言った言葉は神様の御心ではありませんでした
神様の愛と憐れみの心を人々に伝えませんでした
逆らっても逆らっても 尚あなたたちのために岩から水を出してあげますよ
と 神様は慈愛を示されたのにモーセがその思いを人々に示さなかったからです
モーセはあくまでも神様の愛と奇跡を人々に流すための器であり最後まで 素晴らしかったのは神でありモーセは ただ神様に従う(べき)ものでした
この時 モーセは神様と心ひとつになることが出来ませんでした
神様の心ではなく 人を見てしまいました
ですから 神様を世に示さなかった時神様からの約束を受け取れませんでした
とは言え
約束の地には入れませんでしたがモーセは 神の国に入る約束を失ったわけではありません
神様はモーセを友と呼びましたその関係が失われることはありません
イエスさまが公生涯を過ごされた頃のパリサイ人たちのことも考えてみましょう
生贄の動物を持ってきた人に対してあなたの生贄には傷があると言いがかりをつけ傷があるものを捧げてはいけないと律法に固く禁じられているので傷のないものを買いなさい という商売をしていたそうです
それに対してイエスさまは
祈りの家を強盗の巣にしていると糾弾され自分たちが神の国に入らないばかりか入ろうとする他の人までも遮っていると言われました
神様は 愛の方です
良いことをしたから神の国に入れるのではありません律法を守るから神の国に入れるのではないのです
わざわざ人と同じ肉体を持ちその命を捧げられてまでも人々に神の国に来て欲しい赦すからこっちにおいでと仰る神様です
律法を破りイエスさまに助けを求めた長血の女は イエスさまにその信仰を褒められました
人々はいつも神様のなさることに驚き呆れました
聖書の神は愛の神でありこの世の常識は勿論律法主義 宗教の枠にも決して収まらない神様なのです
話を冒頭に戻します神様が造られた権威のお話です
結論から言えば
リーダーとなる人が どんな人間かではなくどのようなみ恵みを受けているかによりその下の人たちがそのみ恵みで養われる
ということです
リーダーとなる人が素晴らしいリーダーシップを持つから下の人が恵まれるのではなく
リーダーとなる人が良い行いを積むから下の人が養われるのではない
ということです
ただ 神の御心により全ては為され
神様のみ恵みを引き出しそれを人々に分け与えることに一所懸命な人がいるとすれば
その下にいる人たちは神様のみ恵みを存分に味わいまた分け与える人となるということです
人を見ず神を見るというのはその人がどのように神様に愛されているかを見る
ということだったんだなぁと思いました
昨日の礼拝メッセージでは神様の前に憩うものとなった時にみ恵みを受け取るだろう という示しを受けたというお話がありました
その時に引用していた聖句はこれですが
詩篇23篇5節私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
私にとって この聖句は事あるごとに示される大切な聖句です
この時ダビデが言っている敵というのは霊的な存在ではありません 人のことです
どんなに人が悪く言おうと 真理を捻じ曲げようと神が用意された食卓で憩う時そこには神様も一緒にいてくださいます
神の栄光が現れるのはそういう場所です
とは言え
正直言うと 心の中では
なんでこんなに何もしていなくて神様 一緒にいてくれてありがとうーみ恵みをありがとうーと言ってるだけなのにこんなに豊かなんだろうー
豊かで幸せなのは嬉しいけどなんでなんだろう?これでいいのかな?
と 思っていました(苦笑
この余計な考えは 自分にはないパフォーマンス志向の弊害です
自分はそれを嫌っていたとしても結局縛られていたんだな
このままでいいんだ余計なことを思わなくていいんだな
と 思ったら本当に肩の荷が下りました^^;
そして本当に見るべきものに 目が開かれました
そのみ恵みに本当に感謝します!