師にある義務 – DIARY WITH GOD

2016.10.11

今 神様は私にある一つのことを深く理解させたいと思っているに違いない

と 毎日のように思います

今朝 りゅうくんと色々と話をしながら 唐突に

昨日の夜 愛に燃やされて生きるを読んでいて気が付いたことと

昨日の朝 りゅうくんに対して伝えたことは 本質的には同じ

と いうことに気が付いたのです

この件について話すためには

りゅうくんに何を伝えたのかを書かなければなりません…

本当は あまり書きたくないのですけど

りゅうくんと一緒に企画やライティングの作業をしている時のこと

りゅうくんが出すアイデアや文章はまだまだ経験が浅いため どうしても独りよがりになってしまいます

そのため 考え方を教えたりアイデアの例を出してあげたりサンプル文章を作ってあげたり

色々やってはいるのですが

りゅうくんにしてみると

自分が出したアイデアがほぼ全てダメ出しされて

より良い案をものの数秒で複数提示されてしまいしかも 自分が考えたところでこの品質に届く自信がない

加えて 私はりゅうくんにとって愛すべき 守るべき奥さん

それなのに不甲斐ない~

と どん底まで行ってしまうらしく前にも後ろにも進めない状態になってしまうようなのです

どっちにも行けなくなった結果「すみがやって」になることもありw

りゅうくんの勉強でやってるのに私がやっちゃったら意味ないだろー

と 怒るを通り越して呆れていたわけです

この傾向は 結婚する前

それこそネトゲで一緒に遊んでいた頃からずーっとありました

告白前は私の方が上手く出来たり彼がミスしても全く気にしなかったのに

告白されてからは ダメなのですよ「男としてのプライド」が前面に出ちゃうみたいなのね

難儀やなぁ と思いつつ

当時は時間もあったし遊びの中での出来事でしたから

浮上してくるまで それこそ聖書とか読みながら待ってあげていたのですが

しかし 仕事のこととなるとそうも言っていられません

折角スケジュールを組んだのに一々ストップされていては困ります

それで 昨日読んだ聖書箇所が丁度この箇所だったのです

コリント人への手紙第二11章21節言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、――私は愚かになって言いますが、――私もあえて誇りましょう。

この後 自分自身がヘブル人であるとかキリストのためにどれ程の患難に遭ってきたかであるとか

負担をかけなかったのにむさぼり取ったと言われているこれは自己弁護だろうか

と いうことを言い並べた後に

コリント人への手紙第二13章2節私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。

という 師としての態度を明確に現しているのです

そして このことは イエスさまが弟子たちの足を洗いながら私が師である と仰ったことと本質が同じであると示されたのです

ヨハネの福音書13章12節イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。

ただ足を洗うだけでは教えにならないのです

教えなければ 勘違いするものがいたり悟れないものがいます

勿論 教えても悟れないものはいます

しかし 教えなかったのであれば教えなかった師に責任があり

教えた後に悟らなかった件は悟らなかったものの責任になります

そのことは 神様が預言者たちに不義を働き続ける(偶像崇拝をやめない)イスラエル人に対して

彼らが悟らなかったとしても伝えなさい伝えなかったらそれはあなたの咎となる

と繰り返し言っているところからも

イエスさまが当時のイスラエル人に対し私が来て何が罪であるかを明らかにしたために彼らは罪人になった

と 証しています

知らなければ 罪に定められず教えなかったものが悪いのです

しかし教えても悔い改めなければ悔い改めなかったものが悪いのです

パウロはコリント人たちに対して恩着せがましくすることなくただ遣える姿勢を見せていた

当時 男性が遣える態度でいるのは弱いものだと思われる時代だった

それもあったのかもしれませんが悪意ある人たちがパウロを不当に悪く言い そのことで混乱が生じた

故に パウロは私は弱さを誇ると言い確かに自分が神の権威を持って遣わされた者だと証明した

この証明で目が開いたものは

(神の権威を持つあなたがたの師として)悔い改めないものは容赦しない

というパウロの言葉に力があることが理解できる

ということがすとんと腑に落ちた

要するに

自分はあなたの師であるということをきちんと伝えないとただへりくだって遣えるだけでは勘違いするんだ

と いうことに気が付いたわけです

それで 私は凹んでいるりゅうくんに

私は企画制作の仕事を20年やっていて

尚且つ 特に品質管理にうるさい大手企業さんに信頼される仕事をしてきた

りゅうくんは未経験者なのだから私と比較をしても仕方がないだろう

それとも あなたは未経験者なのに20年のベテラン先輩と同じ品質で仕事が出来る程の人間だと思っているのか

実績もあるベテランの先輩が近くにいて考え方や方法を丁寧にアドバイスされているのにどうして凹むばかりで吸収しようとしないのか

私なら喜んで吸収する

未経験の癖に出来ないからって凹むのはこの仕事を舐めているからだ

私に出来るのは20年の蓄積があるからだ謙遜になりなさい

ということを伝えたらみるみる笑顔になった

企画制作ライティングにおいて私のことを先輩だと認識した途端に受け取り方ががらりと変わったのだ

それまでは 出来ない すみやってという態度だったものが

自分が全部やるから確認とダメ出しだけお願い

に 態度が変わり作業スピードもupした

私から学び取ろう学ばせてもらおうという気持ちにスイッチが入ったのだ

勿論 このことを聞いても悟らない人だっているだろう

しかし 悟っても悟らなくても教えなければ師が悪いのだ

それに 悟らない人に気遣って言うべきことを言わなければ悟るべき人が悟る機会を失う

時はあるにしろ言わなければいけない時というのはあるのだなぁと思いました

で このことは私の仕事に対するスタンスにものすごーい重要なことだと感じています

日々 育てて頂けることを本当に感謝します

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