神様との親しい会話のために – DIARY WITH GOD

2016.12.26

神様の声を聴きたい!と言っている人に共通の思い違いがあるなぁと感じたので

神様の示しというのがどういう感じなのかを書いてみたいと思います

念のため注釈を書くと この話は聖霊を受けており 尚且つ霊的な見分けの訓練を受けている人に向けて書いています

聖霊以外の霊も語りますので(彼らの方が声は大きく騒がしいです)見分けの訓練を受けていない人は まず訓練についてしっかり教えている教会の霊的カバーを受けてください

霊の見分けや神様の声を聴くことについては他の記事も併せてご参考ください

羊は飼い主の声を聴き分ける自分の奥まった部屋で祈るためにわからなかったら聞いてみる啓示と預言

この記事で書こうと思っていることは神様からの預言を受け取ることではなく「神様と親しく会話をする」ことの方です

「電話」という例え

海外から神学校に来たメッセンジャーさんが「私は神様に通じる電話番号を知っている」と聖書箇所を教えてくださったことがあります

神様の声を聴く ということを考えた時にふとこの「電話」という例えを思い出しました

神様の声を聴こうとするとき黙想という表現を使います

たまに書いているQTというのはQuiet Timeの略ですが直訳すると「静かな時間」であり心静かに神様が語りかけてくださるのを待つ黙想の時間のことを言います

この際 必ず御言葉(聖書)を1行でも読んでから黙想すると神様からの語り掛けを受けやすく

りゅうくんも QTであれば出来るのですですが 聖書を離れたところで日常的に会話をするのが苦手なようです

私の感覚で言うと

神様の声というのはとても軽やかで自分の思いがあると あっという間にかき消されてしまうような繊細なものです

なので「神様の声が聴きたい!!!」と念じているような人には

神様が語りかけていたとしても自分の思いでかき消しているように感じます

事実 りゅうくんがたまに神様が見えない 神様の声が聞こえないと言っている人の横に神様がいて触れたり寄り添ったりして下さる姿を見ていることからもわかります

休んで と神様が語っているのに休めない と泣いていれば神様の呼びかけは聞こえませんし

あなたとお話をしたいよ と語られているのにあの人を助けてください この人を助けてくださいとお願いばかりをしていたら神様との会話は始まりません

まずは自分の思いを全て鎮めて神様が何を言おうとしているか耳を澄まさなければなりません

すぐ横にいるのに 見えない 聞こえない自分の思いが強すぎて 繊細な神様の臨在に気が付かずにいるように感じます

神様とのチューニング

「電話」という例えに話を戻しますが

今日 りゅうくんに 神様の声を聴いてねーということを伝えている時にふと「神様からの語り掛けはまるで電話のようだ」という思いが与えられました

電話というのは こちらからかける場合は相手がその電話を取れば会話が成り立ちます

神様はいつも私たちと一緒にいてくださいますが霊的な層が違う場所におられる という感覚です

なので 神様にチューニングを合わせたりこちらに合わせてくださいとお願いする必要があり

それが 黙想であったり祈りであったりするのだと思います

黙想が電話をかけること神様にチューニングを合わせて耳を傾けること

祈りが電話をかけてくださいとお願いすることこちらに合わせて現れてくださいとお願いすることです

神様が目の前にいらっしゃっても神様を見ないことも出来ます

私の場合 人が熱心に祈っている時などは覗き見をするような気分になってしまうので神様から呼びかけがない限りはチューニングを合わせないように意識しています

この気遣い過ぎのせいで りゅうくんに伝えなさすぎる問題が発生してるのですけど

本当に関わることが必要な時は神様から「こっちに来なさい」と声がかかりますこれは「神様から電話が来るケース」です

電話というのはこちらの都合に関係なく鳴るものです

忙しくしている時何か作業をして集中している時

また 居ることはわかっていても私には関係ないな と思ってスルーしかけた時に

「神様が」電話を鳴らすとしたら それは至急の要件で 尚且つ重要な内容です

そして至急であればあるほどものすごく短く要件が伝えられます

こういう時に詳細な説明はありません「これをしなさい!」それだけです

多くの人はこれを無視してチャンスを逃すのではないかと思います

特に 理由がわからないと動けないタイプの人はこの呼びかけに答えるのが大変苦手であるように感じます

「ふと心に浮かんだ」ことを気のせいかな?とスルーしてしまうのです

ですが これこそが大事なのです

「ふと心に浮かんだもの」は決して軽視してはいけません

自分にとってはどうでも良いことでも神様にとっては大事な用事であることもあります

例えば 休みなさい という指示です

本人は大丈夫 動けると思っていても休んだ方がいいのに神様の示しを無視して後で体調を崩したりするわけです

私は昔 完全なワーカーホリックだったのでこの示しになかなか聴き従えずにかなり痛い思いをしました

もう十分休んだよ これ以上何を休めというの!?と 思うこともしばしばでしたが

それでも神様の御声に聴き従う時に神様が与えたい恵みを受け取ることが出来るのです

それは 本当に一両日のことではなく何度も何度も 本当に自分が神様に全てを明け渡すことが出来るまで続きます

人が思うより高い神様のご計画

神様が為さろうとしているのは

地においても 天の御国の住人であるように霊・肉・魂の全ての領域における完全な健康を持つ「イエスさまに似た者」にすることです

神様がなさろうとしていることは自分が悩んでいる症状(例えば肩こりや風邪)が良くなったから健康になったので終わりとかいう軽いものではありません

何故それをしようとされているのかと言えば「神様の栄光をあなたを通して表すため」です

そこまで良いものはいらないよ と言うことも勿論出来ます

あなたを私の栄光を現す器として選んだという呼びかけに応じるかどうかは選択の自由が与えられています

ですが もし神様の栄光を現す器として用いられたい 神様の奇跡を見たいと思うなら

神様が為さりたい良いことの全てを受け入れることがとても重要です

聖書に約束されているこれらのことをぜひ心に留めてみてください

ちなみに

自分が欲しい恵みだけ受け取って神様が与えたい恵みは要らない と言う人に神様は親しく語られることはありません

欲しい恵みだけ欲しい神様が与えたいもの全部は要らない

という姿勢は自分が主になっている状態で偶像崇拝のご利益主義がベースの神感で神様はそれを大変忌み嫌われているからです

また 神様との親しい会話というのは聖書に基づいた約束の上にありますが

神様の御心を知らずに聖書を読んでしまうと意味を取り違えることがあります

特に 罪の問題を解決していない場合は自分や他人を責める剣としてしまうので神様の御心を求めて聖書を読むと良いと思います

この件については神様の御心を聴き求めるもご一読ください

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