向き合うことに付き合う – DIARY WITH GOD
2018.11.07
昨日のことなのですが
物凄く久々に 何気ない風景の中にある
地の暗い部分というものを見せられました
それが1つだけなら然程気にしなかったのですが
1日かけて 3組もの違うタイプの暗さを見たので
これは 全く無意味じゃないぞ と感じました
尚且つ その件について祈ろうとしたら
りゅうくんが屁理屈をこねて邪魔をしたので
そうか この人の背後にあるものかと気付きました
言われてみれば 見かけた3組は
りゅうくんの家族が持っているであろう
霊的暗さと似たものがあるのかもしれません
荒々しい態度で怒りながら独り歩く老女
生きることに希望を見いだせずにいる学生達
建物の中を びっくりするぐらいの大声で
談笑しながら足早に行く酔ったサラリーマン達
思えば昔はよく見た光景で
別に珍しいものではないかもしれません
しかしその姿を見て その声を聴くだけで
この人たちには祈りが必要だとわかりますし
背景にいるものが聖くないこともわかります
すぐに 彼らが希望を得ることが出来るように
神様が作られた本来のいのちに
立ち返ることが出来るようにと祈りました
しかしりゅうくんは その祈りを邪魔しました
それは結婚直後にはよくあったことなので
過去に慣れ親しんだ暗い霊に
感化されたのだな と感じました
もし 自分がきちんと救われたという
自覚があるのであれば
人のことを祈ることは容易いです
ですが その救いを受け取り切らないなら
人が救われることを祈るのは難しいかもしれません
嫌だな と思うことを神様から
やりなさいと示される時に 葛藤が生じます
祈りたくないな と思う時に
それについて祈る人を見れば邪魔をします
それは 悪霊に操られているとか
そういうことではなく 感情の問題であり
本人の成長の過程です
蛇足ですが
悪霊を信じている人は悪霊の嘘を口にしますが
その内容は良くも悪くも霊的であり
こちらが何かをアクションするより前に
阻止しようとしてきます
こちらが行動を起こすよりも前に
察知して邪魔をしてきますし
攻撃があった時に 自分の感情とは
全く関係がない怒りや恐れが投げ込まれます
得体が知れないものについては
出て行け と命令をすれば出て行きます
しかし 私の行動や発言を見て
感情的になっただけの発言というのは
それは 人の感情の問題であり
私に対しても何の影響もありません
勿論私も感情がありますから
不愉快に思ったりもしますが
自分のことであれば制御すればいいだけですし
制御出来ない感情は神様に頼ればいいだけです
勿論
私自身 自分の感情にどう向き合えばよいか
わからないようなこともありますから
問題は その解決を神様に頼る意思が
持てるかどうかなのです
単純に どうしても許したくないと
思っているなら 神様に対して
許せるようにしてくださいとは祈りませんし
他の理由でも解決されては困るのであれば
解決を祈ることは出来ないのです
イヤイヤ期の子どもが
助けの手を伸ばされると怒るようなものです
自分でやるの!というわけです
子どもの頃に良い子だったり
親が強くてイヤイヤをしきれなかった子は
その感情を味わい尽くす必要があります
感情は 味わい尽くさなければ
終わらないものなのです