赦しというとりなし – DIARY WITH GOD
2016.11.21
法律やルールと聞くと窮屈さを感じる人もいるかもしれません
ですが 例えば交差点に信号もなくどちらが優先的に一時停止をするという決まりもなかったらどうなるでしょう
まず事故が起こるでしょうし
事故が起きた時のルールがなければ立場が弱い人が痛い目を見るでしょう
法律やルールの多くは人を守るために存在します
知る知らないに関わらず法の下で生きている
その法律やルールの性質は管理する立場の人の性質や考えを反映します
今の日本なら 国の法律という大きな枠の下に都道府県や市町村という地方のルールがありその下に 自分が所属しているコミュニティ…会社や家庭のルールがあります
法律やルールは 自分から学ぼうとするか誰かが教えなければ知ることが出来ません
特に子どものうちは 管理者である親が子どもにルールを教える責任があり子どもが法律を破った時は 親の責任が問われます
家の中で 子どもが親の財布からお金を盗みそれを注意することなく子どもは盗んではいけないということを学ばなかったとしても
そのまま大人になり 外で盗んだ時にはそれが悪いことだと知らなかったと言っても逮捕されてしまいます
法治国家である以上は本人の知る知らないは関係ありません
そうでなければ法の意味がありません
知らないからと言って法が守られなければ盗まれる人の権利を守ることは出来ません
法は 人を守るためにあるのですから加害者が知らなかったとしても法は 被害者をきちんと守るのです
この世の秩序
そして神様は 全ての創造主であり神様ご自身が 真理であり秩序です
神様は義なる方で誠実な方であり愛なる方です
神様は完全な方であり必要があってこの世を造られたのではない
この世界は ただ神様の愛により造られました
神様は この世界の素晴らしさを共有するために人を造られました
そして人が幸せに生きるために律法を与えてくださいました
ですが 神様が為さったことはそれだけではありません
神様がくださった法の中には両親を敬うこと安息日を守ることなど
多くの現代人が一生を通して守り続けることが困難なことも定められています
私自身 反抗期には両親に悪態をつきましたし忙し過ぎて休みが取れない日もありました
そういった 悪い種を撒いた結果悪い実を結んでしまうこともあるでしょう
ですが 法を破ったものに対して神様が定められている代償は「霊の死」です
肉の死のことではありません
大小に関わらず 一度でも罪を犯したことがある人は天の御国に入る権利永遠に神様と共に生きる権利を失うのです
ですが 人には 全く法を犯さずに生きることが出来ないことを神様はよくご存知であるので
イエスさまという解決をこの地に送ってくださいました
イエスさまを信じた時 イエスさまが罪の贖いをしてくださったというみ恵みを受け取ることが出来ます
ですが 救いを受け取るだけでは十分ではなく
神様の赦しを余すことなく受け取るために悔い改め というものが必要であると神様は仰られています
そして 悔い改めたものに対しては罪を犯したことを忘れると仰ってくださるのです
とりなしという犠牲
ところが この赦しの法則には加害者本人が悔い改めることだけではなく
被害者の犠牲によるとりなしというものにも大きな力があります
愛に燃やされて生きるにある証ですが
ある牧師はアフリカで暴行を受け一度は息を引き取りましたが
多くの祈りにより息を吹き返しますしかしその時 死に至るほどの傷がまだ残ったままで 彼は大変苦しみますが
その苦しみの最中で 彼を襲った暴漢を赦すことを宣言します
犯人は警察に捕まっていましたが赦すことを伝えた時 警察は馬鹿げていると大変怒りました
何故なら警察は こういう暴漢は罰しないと再び罪を犯すと信じていたからです
ですが最終的に 警察は犯人を釈放することを決定してくれました
その決定の瞬間 被害者の牧師にあった死ぬほどの傷が一瞬にして癒されるという奇跡が起きました
犯人は 牧師たちが引き取りに行きますが悔い改めて 神を受け入れ神学校で学ぶまでになったそうです
被害者である牧師は 命を奪われるほどの暴行を受けましたが しかし犯人を赦したため本来の健康と 犯人の悔い改めという2つの報酬を神様から受けました
牧師は勿論 一人でも多くの人が救われることを祈っていましたが
自分の命を犠牲にして 赦すことで自分の命(怪我の癒し)を受け取りひとりの尊い命を救いました
正に 身体を張ったとりなしであり命をかけて救われた犯人はその愛に打たれて悔い改めたのです
イエスさまの十字架とは正にそういうものでした
私たちが誰かを赦せずにいる時
心にある傷が自分自身を傷つけたり病ませていることがある
ですが赦すことを決めた時
神様は 自分自身の回復だけではなく相手の命をも救ってくださるのです
神様の愛にある美しさ
少し前 赦すという宣言の意味という記事で全ての人を赦すお祈りを促され神様の大いなる愛を感じたことを書きました
実はあの日以来 よく神様に私は何を赦すべきですか?と聞くようになったのですが
自分が救いたいと思っている人に傷つけられ 尚も赦すという姿はイエスさまの救いなしにはなかなか受け入れることが困難な姿であると思います
創造への召しの中でマコトフジムラさんが仰っているトラウマの奥にある美しさ犠牲の愛という美しさというのも同じことであると思います
人の力では 難しいかもしれませんですが神様はそれを成し遂げてくださり
そして今 私たちの中に住んでくださっているそれはとてつもないことであるように思います
私たちは弱いですとても許せないと思うかもしれない
それでも その弱さに神様が現れることを祈ります