恵みに心を開く – DIARY WITH GOD
2016.10.23
今日は 神様が何かとても素晴らしいものを用意してくださっているという期待感を持って教会に向かったのですが
第一礼拝では 弱さの中に現れる神のお話で正に今 神様から示されているものについてどのようにとらえるべきかが示されました
また第二礼拝では 求めることについて「グッバイ軟弱なキリスト教」の著者であり世界35ヶ国で6000もの教会を監督するチェ・アン牧師が礼拝でメッセージをしてくださり
先日の イザヤ書の他にも神様と格闘しているところがあることをたくさんたくさん 示されました
本当にたくさん過ぎて 祈りの時間中に悔い改め切れたか不安なぐらいでした(苦笑
9時の第一礼拝において
苦しみの時に神が慰めてくださることその慰めにより人をも慰めることが出来ること
そして何より 私たちひとりひとりが神様が造られた素晴らしい作品である
ということが示されました
詩篇139篇13-16別訳あなたは私の腎臓を創り、母の胎うちで私を組み立てられました。私はあなたを賛美します。あなたは私を、畏れを抱かせるほどに素晴らしく創ってくださったからです。あなたの創造の働きは驚嘆に値します。私の魂はそれをよく知っています。
人工透析の機械は数千万円するそうですが腎臓の代わりではあれども とても本物には及ばない
何億円出しても代わりがないほどの素晴らしいもので人は構成されているそのように神様は私たちを造られました
あなたはどのような宝石よりも高価で素晴らしいもの
…というメッセージだったのですが
それは昨日 神様だけについていくの中で書いていたひとつひとつ丁寧に目を編むようにあなたのことを造ったんだよ とイエスさまが仰ったことと通じるなぁ
と 感じていたのですが
このことは 私が心を開くための下準備であったようです
11時 第二礼拝で賛美が始まるとすぐに
良い子にならないで偽善者になる必要はないと神様から示されました
何のことかわかりませんでしたが手放すことを宣言した
そうやって開いた私の心に
イエスさまの十字架がダイレクトに飛び込んできました
私の目の前1mぐらいのところでイエスさまが 私の罪のために十字架にかかるビジョンが見えたのです
本当に 目の前です
他の誰のためでもない私のために十字架にかかられた
私を取り戻すために 自ら喜んで十字架にかかってくださったのだ
ということがはっきりとわかりました
私のために 痛みを背負ってくださった私のために 死に そして死に打ち勝ち蘇ってくださった
そのことが どうしようもなく目の前で既に為されたということを 感じてしまったのです
涙が止まりませんでした
何故罪深い人間のために何の罪もない存在(イエス様)が死ななければいけないのか
人にそこまでの価値があるのか
クリスチャンになる前 ずっと感じていたイエスさまの贖いに対する抵抗感をただ信仰により押さえつけていたその仮面が取り外されたように感じました
そして チェ・アン牧師のメッセージで
自分の中の苦い思いのために求めたのに受け取らなかった恵み
という証を聴き
自分が受け取り拒否をしていた全ての恵みの数々について
本当に 祈りの時間が足りないほどにたくさん思い起こすこととなりました
更には
りゅうくんが 賛美中に私のビジョンを見たとメモを見せてくれたのですが
それを見て 更に号泣することに…
そこには
大好きなイエスさまが十字架にかかってしまい痛い思い(というか死ぬ思いですけど)をするのを見て泣いている私のことを
イエスさまが 大丈夫だよごめんね と慰めているビジョンでした
大好きな人が(例え親心からだとか自分を助けるためだとか言っても)
自分のために死んでしまうのは嫌です
ええ 純粋に そんなの嫌なのです大好きであればあるほどに そんなのは嫌です
私は 嫌だーってずっと駄々をこねていたそんな恵みだったらいらないーって
そう言って イエスさまを困らせていたんだなぁ
と いうことがよーく わかりました…
そして
自ら進んで辛い方 辛い方へと行こうとしてしまう癖も 全部根っこは同じだったんだなぁと思いました
全てがイエスさまのためであるなら怒りなんてもうどうでもいいや
と いう気分になりました
そして 自分が欲しかったもの大切にしていたのに失ったもの欲しいと思ったのに掴まなかったもの
思いつく限りのものを洗い出して神様 あなたの御心ならこれをください
と 改めて神様に求めてみようと思いました