権威ある領域で成長するために – DIARY WITH GOD
2021.12.14
相変わらず日記を再編纂中なのですが
期待の現れという記事の中で神様が 私が怒ったことを喜ぶという驚くべき体験をしたことが書かれていました
答えから言ってしまうと怒るのが嫌で無視をしていたらきちんと怒るように促された
というものなんですけどとどのつまり
怒りたくないからという理由で無視をするのは自分に対しても相手に対しても無関心
ということだということがわかります
上記の記事の場合はりゅうくんが自分の言葉に対して無責任なことを無視してはならず私がりゅうくんに教える立場であることを無視してはならない ということでしたが
私は なんだか腑に落ちないけどと思いつつもスルーしてしまうことが結構あり
良くないな と思ってしっかり考え始めたらだんだんイライラしてきてしまうというパターンがあることに気付きました
これも、怒りたくないから無視してしまうというものです
聖書にも 怒ったまま翌日まで過ごすことは良くないとは書かれていますが怒ってはいけないとは書かれていません
また他の記事では、どうでもいいやとスルーしていた人に対して赦すように促されたことが書かれていました
怒っていないのだから赦すも赦さないもないと 思っていましたがそもそも怒らないのは無関心だからです
これは自分に対しても無関心であり相手に対しても無関心だということです
無関心は愛と真逆の性質であると思います
黙示録で「熱いか冷たいかであって欲しい」と言われていたものの 冷たい方です
ですが神様は 自分のことやりゅうくんのこと
もっと言うと 自分自身に権威が与えられた領域について熱く生きて欲しいと望まれているのだということが最近になりやっとわかってきました
無関心でい続ける限り その領域において人格が成長しないのだと思います
考えて 向き合って 怒った上で赦すという過程を通らないと真っ直ぐ向き合えないし権威も用いることが出来ないのです
何故なら権威とは 愛がある領域に発揮されるからです
最近ずっと示されていた愛を注げることだけをする というのは
神様が権威を与えた領域を愛しなさい
ということだということです
日記を読んでいると失敗を恐れないでとか効率を求めないでということをすごくすごく示されているのですがそれらのことは全て一貫していることがわかります
愛があるからこそ怒ることや愛があるからこそ上手くできないことにイライラすることから逃げないこと
成長のプロセスから逃げないで と示されているのだと思いました