求めていなかった必要 – DIARY WITH GOD
2022.03.16
神様が「やりなさい」と示されたこと以外を削りに削っていく作業をする中で 今
経験することでしか癒しや解放が起きない領域に置かれていることを感じる日々を送っています
良いものを受け取るためには不要なものを捨てて良いものが入る隙を作らなければいけないわけですが
捨てるべきものとは一体何なのか
それを明確にする作業だと感じています
今まで不要なものについては感覚的にポイっと捨ててしまってきていたのですが
必要なことはわかっているのにどうしても受け取れない領域がありその原因が何であるかはわかっていながらなかなか打開できない状態が続いていました
この問題 ということはなんとなく当たりはついていたのですが
その問題に対して自己解釈で歪めてぶつけてくる日本人クリスチャンが何人もいたので
日本という土地にある問題なんだろうなということを感じていました
英語圏の人から受けた預言は全て素直に喜んで受け入れることが出来ていたので
最終的には バイリンガルの預言ミニストリーの方に日本語圏の方にではなく英語圏の方に預言をしてほしいとお願いをして
やっと 神様からこの問題を解決するために私が何を捨てなければいけないのかを明確に示してもらうことが出来た…ということは
半年前ぐらいの話なので日記にも書いていますが私が捨てなければいけないものは「仮面」でした
とは言え、幼少期から自分を守るために好むも好まないもなく身に着けてしまったものなので何をどうすればよいかは全くわかりませんし
上述の通り 日本人クリスチャンはこの件について歪んだことばかりをぶつけてくるので困っていたわけですが
それが取り去られることを祈り始めると起きた出来事が 私に仮面をつけることを強要してきた人とのバトルと決裂だったのです
その筆頭は母でしたが それだけではなくネットでの人間関係の中でも様々なことが起こり始めました
そしてそれは 記憶する限りでの子どもの頃小学校や中学校の頃にきちんと向き合うべきだったのに避けてきたことをやり直す時であることを痛感しました
その中で 神様がわたしやりゅうくんに何とどう向き合って欲しいのかどのような人生を歩んでほしいと神様が望まれているのかについても段々 明確になっていきましたし
何がどのような手口で私の人生を壊しているのかもわかってくるようになりました
更には どうしてそんなことが起きてしまうのか構造上の問題のようなものも明確になりどうしたらその構造にならないように出来るのかもなんとなく見えてきましたし
その構造を受け入れない人と受け入れない理由についてもなんとなくわかってきました
それらの詳細については具体的には書きませんが
問題が入ってくることを許容する権威の下では中にいる人は各自 自分を守るためのルールを作って持たなければいけなくなり
その各人の持つ自衛のルールこそが仮面だ
ということははっきりとわかりました
例えて言うなら
もし「他人の家に勝手に入ってはいけません」というルールがなかったとしたら他人が家に勝手に入ったとしても誰も何も言えないし 出て行けとすら言えないので何らかの自衛が必要になる
ついでにいうと その自衛手段という仮面を真似たり そこで個性を表そうとしたりするのだけどそれは本当の個性ではない とも気づきました
色々ありますが 一番大切なことは
ここにはルールがないのだから頑張って自衛しなくちゃ というのは「間違えた人生」だった ということです
私の親は 私を守らないどころか私に悪いものばかりを招き入れる人たちでした
ですから私は 親に対して悪いものを持ち込むのはやめてくれという線引きだけをしていました
親が私を守るなんていうことは無理だと思っていましたしないものねだりはするものではないと思っていました
被害さえなければ十分だ
と 思っていたのです
ですが今朝 神様から示されたことは
本来 子どもは親から安全に守られ愛される権利があるということ
守られて安心して生活することは子としての必要であること
その必要を満たさなかった親のことを恨んでも怒ってもいないことはわかるがそれでも必要を満たしてくれなかったことを赦し自分にそれが必要だと認めて受け取ってほしい
と いうことでした
望んだことはなかったですが確かに子どもが守られることは必要なことです
子減らしや借金のかたとして売られた子は行った先で奴隷として役立つ道具である必要がある奴隷の考え方というのはそういうものです
しかし親が子を虐待したり きちんと育てなかったために子が他の人に引き取られた時に子が養育費の心配をしたり自分の態度一つで殴られたり捨てられたりすることを恐れることについては
引き取った人が愛をもって そうじゃないんだよとわからせてあげる必要がある
そんな感じなんだな と思いました