知識のことばと知恵のことば – DIARY WITH GOD

2016.11.22

神様から頂く賜物には様々な種類がありますが

その中でも「ことば」と表されるものには知恵のことばと知識のことばの2つが聖書に示されています

コリント人への手紙第一12章8節ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

2つが別々に記されているということは1人の人が片方だけを受ける場合があるということを示しています

知識と知恵の賜物の定義

ここで言う「知識」というのは取り次ぐ人は知らないのに神様はご存知である事柄です

例えば癒しのミニストリーの最中に「交通事故の後遺症で右足が痛む人」というような示され方をしたり

預言のミニストリーの最中に「842」「17」といった数字を示されたり人名や地名が示されたりすることで

神様が何かを語りたい(或いは癒したい)という意思表示の現れとして託されます

対して「知恵」というのは辞書にある通りの意味に「神様の」という主語がつきます

デジタル大辞泉「知恵」物事の道理を判断し処理していく心の働き物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力

知恵・知識のことばの現れ方

冒頭に書いた通り 知恵と知識は1人の人物に与えられるとは限りません

知識は受けたけど それをどう扱えば良いかわからない ということもありますし

知恵は受けたけど 具体的な内容がわからない ということもあります

多くの場合はリーダーとなっている人が知恵と知識の両方を受け取ったり

「この会衆の中(或いはサブリーダー)の中に知識の言葉を受け取った人がいる」と神様に示されることが多いように感じます

知恵を受け取っている人の場合は知識の在処や扱い方をも知らされている場合がほとんどですが

知識だけを受けた場合はその知識をどう扱うかについて慎重に探っていく必要があります

それは 聖書にこのように記されている通りです

ペテロの手紙第二1章5-7節こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

信仰と徳の上に知識を得て知識に対しては自制と忍耐と敬虔と兄弟愛と愛を加えるように 聖書では教えているのです

知識のことばの扱い

私の経験上 知識の扱いについては神様による訓練があると感じています

具体的に言えば上述の通り自制 忍耐 敬虔 兄弟愛 愛へと発展させていくための訓練なのですが

それは 神様にどう扱うかを尋ねることできちんと導かれていく道であるように感じます

私の場合の話で言うと

賛美中にビジョンを貰うことがよくありますが

大抵のビジョンは私自身に対する励ましや私自身に対する未来への希望なので神様に感謝をして心に留めておきます

しかし場合によっては示されて絵に描いたり文章にして残します

(私の場合はFacebookに書くよう示されてUPすることが多かったです)

ですが 全く意味が分からないビジョンを見せられ 尚且つこれは何ですか?と尋ねても答えがない場合は話が変わります

それは 人に伝えたり共有するべきビジョンである可能性が高いので

まず 共有するべき人が誰かを探す必要があるのです

神様が共有すべき人物名を出してくださればいいのですがそういったヒントすらない場合は

共有するために まず絵に起こし思いつく限りのリーダーや兄弟姉妹に見せて回りました

その過程が大事なのか途中で共有した人にとっても意味があるのかは私にはわかりませんが

自分が見たものも 相手に見せる時の方法も丁寧に扱うことを体験したと思います

他人に関わる知識のことば

また 知識のことばには自分の範囲の外に踏み出す必要があるケースがあります

それは 他人に対する神様の示しです

これこそ 自制と忍耐と敬虔と兄弟愛と愛を鍛えられる経験となります

ですがまず最初に 他人に関する知識のことばが「必ずしも相手に伝える必要があるわけではない」ということに気を付けなければいけません

私の経験を書くと

夢の中に教会の兄弟姉妹が出てきたり神様が名指しで知識のことばを示してくださった時にまず最初に

これは本人に伝えるべきですか?と尋ねます

すると ただ単に神様の思いを知って欲しかっただけなので心に留めておいて と示されることがあるのです

神様のご性質を知るために或いは思いを共有したいと思ってくださり知らせて下さる場合もあるのです

また 伝えた方が良さそうな雰囲気の時はいつどのように伝えますか?と尋ねてその方法に従います

その時気を付けるのは自制 忍耐 敬虔 兄弟愛 愛という軸からずれないようにすることです

「愛に失敗はありません」とある通りこの中でも愛は最も重要です

そしてさらにもう一つこれが私にとっては大変厄介だったのですが

実は自分が知る必要がない知識を拾ってしまっている場合があるのです

私がそのことに気が付いたのは預言の絵の講習会に参加した時のことでした

余りにもたくさんのビジョンが見えてしまい1つ1つ吟味して 自分が描くべきものがどれか探さなければならず 絵を描く時間が大変短くなってしまいました

そしてみんなの絵をシェアする時間になったら「これは私が描くべきものじゃない」と感じたビジョンを他の人が描いていたのです

私は空中に漂っていた全てのビジョンを無作為に見てしまっていたのか と呆れました

これはすごい気分が悪かったです吟味する時間が勿体ないことこの上ありません

何より 他の人が受けるものは他の人がきちんと受けてくれますから私が見る必要は全くないのです

すぐ神様に「自分が受けるべきもの以外は見えないようにしてください」とお祈りをしたらそれ以来 余計なビジョンは見えなくなりました

恐らくクリスチャンになるより前に自然の賜物として知識の賜物を持っており

神様の御心は何でも知りたいと漠然と願ってしまっていたのだと思います

聖書を知る前に知らずのうちにやってしまった賜物の乱用と言えるかもしれませんが

ここには知識を得る前提にあるはずの信仰と徳が欠如していますし何より自分自身が困っていたので

余計なものが見えないように祈れたことは本当に良かったと思っています

知恵を頂けたことに感謝します

(ちなみに本当に不要なものは祈れば すぐに取り去ってくださいますが

 訓練中のものについては祈っても 取ってはくださいませんので その場合は きちんと訓練と向き合ってください^^;)

知恵のことばには従順に

以上のように 知識はそれだけだと大変厄介なところがあり

神様の知恵を求めていくことで上手に知識と付き合うことが出来るようになっていくと感じます

では逆に 知恵だけを頂けた場合はどうするかということについては

示された通りに動けば あとは聖霊さまがどうにかしてくださるのでとにかく従順であれば良いと思っています

但し それが神様から出たものかを分別する知恵知識が必要になります

自分の奥まった部屋で祈るためにという記事に詳細を書いているのでそちらをご覧ください

また 従順に動くことに慣れていない人には訓練の機会が与えられると思いますが

その訓練は 神様の御業を見るとても素晴らしい機会になるのでぜひ従うことをお勧めします

私が経験したもので一番素晴らしかったのは行ったこともない神戸について祈るように示された時のことです

何について祈ればいいのかは示されず わからなかったのですがそういう場合も異言で祈れるのでわからないながらも とにかく祈りました

「行動」をすれば あとは聖霊さまが全てをなさってくださるのです

祈った直後 旅費までの全てを与えられて本当に神戸に行くことになりました

そしてとても素晴らしい空を見せられた時に祈りは聞かれた ということはわかりましたが

自分が何を祈っていたのかは最後までよく分かりませんでした

ですがこの時 神様から示されたことについてお金はどうしよう 日程はどうしようなど考える必要はなく 動くことを決めるだけで必要が全て与えられるという体験をしました

この体験は本当に貴重でその後の自分の信仰が大きく変化しました

神様の知恵は 本当に偉大です

知恵を求めることは神様との関係を築く上で大変重要なものだと思います

ヤコブの手紙1章5-6節あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

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