神様が良いとされるものだけを見る – DIARY WITH GOD
2021.10.17
昨夜はもの凄く強い風が吹き浴室の内倒し窓が風で開いてしまう程でした
今日は午前中は曇っていましたが昼になるととても明るい空になりました
悪いものを全て吹き飛ばしていただいたようでとても清々しい空気になりました
ここ半月ぐらいの間に神様から人が こういう人を人格者だと思うというような「人の目線」を完全に断ち切るように示されています
こういった示しにより思い出すのが「人の書いた歴史書にはイスラエルで良い政治や貿易を行った素晴らしい王だったと記されている王が、歴代誌では神の目に悪を行った王だと記されている」
という話です
誰のことだったかは忘れましたが金策が成功して民が豊かに暮らせても神様から来ていないことはあるし
書かれてはいないものの神様から来ない恵みの下ではきっと神の人と呼ばれる人たちは虐げられたのだろうな と思いました
次の世代がどうなったとしても自分たちが生きている間だけ良ければいい という目先だけのことを考える人はいます
そういうのって酷いな、と思っていたこともありましたが
最近 もっと酷いものがあると知りました
それは悪いものを分別する知恵知識がなく悪いものを後世に受け継がせようとする人です
本人には悪気がないどころか良いことをしているつもりなので頭を抱えていたら
神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。 神に逆らう者は同情すら残酷だ。箴言 12:10
というみことばを示されたのでなるほどーと納得すると同時に
相手の求めるものを真に知ることは神様のご性質なんだ と深く実感をしました
確かに神様は心を探る方で自分が求めてもいないような素晴らしい恵みで満たしてくださり思っても願ってもいなかったような高いものを与えてくださいます
あまりにも貴く平伏す程の恵みです
でも、与えられたものが素晴らしいことに気付くことなく人の手柄にしてしまう人もいます
そんなことを話していたら海外には未だに地動説が理解できず(というか地球が球体だと信じず)天動説を信じている人もいるらしいとりゅうくんが言っていました
進化論だってそうですし真理を知ることが出来ることや神様の御恵を見ることが出来るのもただ神様の恵みであり人の知恵知識の問題ではないのだから神様を知れることをただ喜ぼうと思いました
今日のQTはヨシュア記7章で罪についての示しでしたが
ここは神様が 聖絶すべきものの中から(財宝などを)盗んで自分の内において自分たちを聖絶するべきものにしないように
と示されたのにもかかわらず 民の中に服や金銀を盗んでしまった人がいたために次の戦いで36人もの犠牲者が出てしまうお話です
盗んだ者は 神に示された通りにくじで見つかりその者の娘息子から家畜や持ち物まで全てを石打ちにして焼き尽くすという悲劇が起きてしまったところでした
QTでは 彼らは犠牲者が出たから何の躊躇もなく罪を取り除けたことを示されました
もし犠牲がなかったら人々は迷い罪を重ねてしまったということです
それは罪だよ とただ示されても痛い目に遭わないとなかなかそれを取り除けないことは確かにあります
私はそれがすごく嫌だったのですが
しかし考えてみれば 痛い目に遭っても罪から離れるどころか神に向かって怒る人すらいるのです
迷いや怒りを高慢な思考へと昇華したのが殺すのではなく赦すことが出来るようになり人は神を超えたというようなことを言っている哲学だと言えるかもしれません
混沌というのは悪魔の性質でありそういうことを言う人は 口先ばかりで実態は 同情すらも残忍です
生み出す力がないものたちが力を持つためには必ず何かから奪う必要があるからです
善かれと思うことが神様の前に残忍だと言われるような人たちが思い描く人格者というのは結局のところ 彼等にとって都合が良い存在でしかなく奪うことを正当化するようなものだと感じます
しかし神様は聖であり 真実で誠実であり神様が語られたことは必ず実を結びその憐れみと愛は 人を自由にします
イエスさまが取り返してくださった権威は悪いものの言う耳障りの良い嘘に対して口を閉ざしてここから出て行けと命令する権威です
人から奪うことを正当化して神様の愛と良いものから引き離そうとする一切の霊的権威に対してイエスさまのお名前により 出ていけと命じます