神様から見た「金の卵」 – DIARY WITH GOD

2016.09.17

例え神様による素晴らしい解放があっても

教えがなければ古い考えに戻っていってしまう

教えがあっても 神様による素晴らしい解放がなければただの苦行で宗教でしかない

というお話です

昨日の神学校のお話

聖霊が下ってきて 多くの人に触れられ多くの人が一時期に神様に立ち返る現象を

リバイバル

と 言うのですが

リバイバルというのはキリスト教の教えが根付いていながら表面的な教えだけが継承されて

きちんと礼拝に行く人が少なかったりと神様への情熱が薄くなっている土地に

神様を切に求める飢え乾きと悔い改めの祈りが起こって

そこに聖霊の火が注がれる

と いったものを指すべきで

キリスト教の教えがないところに聖霊の火が注がれたとしても

神に立ち返った人を弟子にしてきちんと教え導く教会が起きていないと

折角 神様に立ち返った人たちがこぼれ落ちていく という話がありました

聖書にもありますね

折角 エジプトから救われたのにイスラエルの人たちは 主なる神を

「数々の神の中にいる奴隷解放の神」と位置付けて 他の神を拝んだ

律法の最初の最初に

あなたには わたしのほかにほかの神々があってはならない

と 神様が言われたにも関わらず教えを伝える人がいなかった為です

また 偶像崇拝の土地に入るときに神様は 彼らの習慣を真似てはいけない他の神に遣えてはいけないと警告しましたが 人々は簡単に偶像を崇んでしまった

聖書を伝承するイスラエル人ですらそうなのですから

元々 偶像や占いが日常にある人たちは折角神様に出逢っても そこから引き離す力に流されてしまいやすい

だから 教えることは大切なわけです

奇跡を追い掛けるだけだと

あそこの教会でこんな奇跡が起きた!こっちの教会ではこんな奇跡が!

と 追い掛けることになり

それは神様を求める心ではなく現象を求める心に過ぎないわけです

でも 神様を求めて得た人はその場限りの現象などではなく

永遠の命に至るまでの全ての必要と満たしを得る

金の卵を産む鶏 という例え話がありますけど

金の卵を貰い歩く人になる必要はないんだよ

あなた自身を金の卵を産む鶏にしてあげよう

と 神様は仰っている

本当の解決は

聖霊の住まう宮となり神様と共に歩くこと

そもそもで 人は神様と一緒に歩くために造られた

神様を持つ人の内にはいのちの泉が溢れ乾くことがなく

求める人はそれを得ることが出来る

その「良い知らせ」を伝えることが私たちのお仕事です

聖書には 知らせなさいと書いてあるけど受け入れさせなさいとか勧誘しなさいとは書いてない

受け入れない人たちには確かに伝えたからねと言ってそこを離れるようにと書いてある

しかしとにかく

伝えること

それは 大切なお仕事なのですよね

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