肉の欲と霊の命 – DIARY WITH GOD
2016.09.30
最近 クリスチャンになったのになんかすっきりしないもやもやする的な話を聞くことがあり
自分の体感することを伝えるべきか否か悩んだのですけど ローマ人への手紙を組み合わせれば説明しやすいな
と 思ったのですが
その人に伝えるのはタイミング逃したのでwここに書いちゃいます
参考 ローマ人への手紙5章~6章
http://web1.kcn.jp/tombo/v2/ROMANS05.html
http://web1.kcn.jp/tombo/v2/ROMANS06.html
まず、クリスチャンになる前は罪の支配下にありました
支配される、というのは死に至るとわかっていることをやりたくなくてもやってしまうやりたくないのにやらされる
抵抗が出来ない 選択の余地がない状態のことを言います
体に悪いけど止められない良心は痛むけどお金のために仕方がない
という わかりやすいものもあれば
本当はやりたくないけど生活のために仕方がない
等々 ストレスを感じる状態に縛り付けられることも含まれる
そこから脱却するためにはお金が必要であるとか良い出会いが必要であるとか
或いはノウハウであるとか考え方や 知恵知識であるとか
もっと良い依存先(本人は解決策だと思っているだろうけどほんとは依存先です)を探して何かに頼ろうとするけど
その頼るもの全てが 問題を解決しない
そのうち 人生とはこんなものだこうやって死んでいくのが人生だと達観してしまうこともある
そういうのが 神様を知る前の状況で
クリスチャンになってからは神様に心から叫ぶことでそういった状態から救われる
依存して良い唯一の存在が創造主であり イエスさまという罪の解決をされた方であると
知ったわけですけど
しかしクリスチャンになっても罪を犯す性質を持つ弱い肉はまだ持っていますし
クリスチャンになれば今まで以上に罪の誘惑がやってきます
敵は 人が神様に救われることが一番嫌であるわけですから誘惑はより強くなります
ですが 何が良いことで悪いことかを知る知識(聖霊の導き)と神様の権威をもって その誘惑にNoと言えるようになる
そしてNoと言えば敵は退散する
それがクリスチャンの特権であるのです
しかし 全てから自由になったクリスチャンには 罪に対してNoと言わない自由も持っています
言っちゃっても 後で後悔して悔い改めます ごめんなさい!と心から神様に言えば許されるという特権も持っています
しかし 悔い改めずに死を選ぶ自由もクリスチャンにはあるのです
ただ そんな選択はさせないよーという 圧倒的な神様の愛と恵みにより
ほとんどのクリスチャンが神様大好き 神様が嫌がることはしたくないです きちんと天の御国であなたと一緒に過ごしたいです
と 思うから クリスチャンは悪いことから離れる選択をするのです
一方
イエスさまを知るまでは敵の誘惑に遭えば それを断ち切ることがとても難しかった
何故なら権威で言えば人よりも敵の方が上だから
…ちょっと脱線しますが
敵は 力のない 驚異でもない存在のことはわざわざ誘惑することも少ない(らしい
放っておけば自分の罪で自滅するような人や貧困に留まっているものなど世に影響力がない人ほど相手にしないそうです
でも 普通の人であっても大きな権力や大きなお金を得た時には悪霊が攻撃に来ることがある
それで 成功しかけたのに失脚する等々なかなか一線を超えることが出来ない
それに対して 著名人の中には「成功している人は 稼いだお金を人のため、慈善事業のために使う」という法則を見いだして その呪いから抜け出している人も多いけど
それこそ そのことは聖書…マラキ書に書いてあるわけです
マラキ書3章8-11節人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が上作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――
そういったことも含めて
聖書の約束やイエスさまの御名の権威はあらゆる呪いを断ち切ることが出来る
しかし 肉の弱さについてだけは
神様に求めて強めて貰ったりきちんと聖書を学んで自分の意思で良いものを選んでいくようになるしか解決策はないわけです
神様は 自分の意思で神様を選んで欲しいから場合によっては助けてくれません
誘惑されたって どっち選ぶの?とご覧になってるだけのこともあるのです
それは 知識が増えれば増えるほど立場があるものになればなるほどどっち選ぶの?ってご覧になることが多いと思います
それこそ 千年王国が来たって誘惑する霊的な敵はいなくなるけど人の肉の弱さがなくなるわけではない
だから 千年王国に入ったら100才にならずに死ぬものは呪われたものだと言われるようになる
要するに 自分の罪で死ぬものは悪魔の誘惑がなくなったって存在すると聖書の中で預言されているわけです
自分の肉の弱さとの戦いはクリスチャンになったって続くし敵の誘惑がなくたって続くのです
ましてや 敵が大活躍中のこの時代
イエスさまの生き方から新約聖書の手紙から誘惑されないように自分を守るために学び続ける必要があるし
敵の只中で苦しんでいる人を救う側に立とうとするときに霊的カバーというのが重要になる
一人でやっていればすぐに弱さを突かれるだろうし
ましてや こういうことすると呪われるよ って書いてあることをやればあっという間にやられてしまうわけです
罪を犯すこと律法を犯すこと(偶像崇拝をする、親を敬わない、安息日を守らない、盗み殺し等々)預言を軽んじること十一献金をしないこと兄弟姉妹を悪く言うこと…等々
で
すっきりしない と言っていた人は預言を軽んじる発言をしていたのでそのせいだろうなぁと思ったのですが
しかし 預言嫌!聞きたくない!
と 言っている人にそれ(預言を軽んじてはいけないって教えてなかったっけ…?)を面と向かって言うわけにもいかず
神様 この人が救われますようにととりなしの祈りをするしかないわけです