愛は多くの罪をおおう – DIARY WITH GOD

2017.01.12

昨日の記事(癒しを受け取る姿勢)の補足ですが赦す相手は他人ばかりではありません

自分に 他の人と同じことが出来ないハンディキャップがあるとわかった時それをそのまま受け入れることが出来る人ばかりではないと思います

場合によっては自分自身を呪う人もいると思うのですが

しかし 弱さや欠けも神様が造られたイメージであり神様がなされたことです

どうして同じように造ってくれなかったんだろうどうして自分ばっかり というように

自分に与えられたものを呪えばそれは 神様の仕事を呪うことであり

神様を呪いながら神様の奇跡を受けることは出来ません

しかし神様は 人の弱さをご存知の方なのでその奇跡を受け取ってくれるまで忍耐強く あなたの心の扉の前で待っていてくださるのです

同様に

神様が準備されている奇跡と違うものを待ち望んでいるとしても

神様の奇跡を受けることが出来ないかもしれません

自分の思いを捨てさえすれば奇跡が起きるというのに自分でそれを阻止していることがあります

自分自身に 神様が下さろうとする奇跡を受けるキャパがない場合も同様です

奇跡に心を開くというのは今までの生き方と真逆を向くことですからそこには結構な葛藤が生まれます

その上更に 敵の声や不信仰な者の声にまで煩わされていたら奇跡に向き合うことは難しくなる

だから「世の声 敵の声 肉の声は聴かない」という宣言は有効なのですが(自分の奥まった部屋で祈るために参照)

人や自分を呪っていたり 無関心でいたりするとその宣言に神様の守りが届かないのです

ペテロの手紙第一 4章8節bに「愛は多くの罪をおおう」とある通り

呪っていたものや無関心だったものに愛と赦しを向けると 敵は出て行けなどと言わなくても逃げていきます

愛は神様のご性質そのものであり愛の前に 敵は留まることが出来ないのです

愛は 神様から来ますから自分の努力で愛する必要はありません

「愛し赦すことを決意する」だけで神様から愛が流れてきます

愛したくない 赦したくない理由を探し言い訳することを止めるだけでそれは み恵みとして与えられるのです

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