神にあるアイデンティティを掴む – DIARY WITH GOD
2016.11.02
以前 肉の欲と霊の命という記事でも書きましたが
クリスチャンになったとしても肉に生きている以上 「肉の思い」が無くなるわけではありません
無くなりはしませんが神様 この思いをどうすれば良いのですか助けてください 取り去ってください!
と 祈れば神様の解決を得られて気持ちを切り替えることが出来るのですが
神様の方法は 人により様々であるようでその方法を体験することにより神様にある自分のアイデンティティが見えてくることがあります
私に対する神様の解決方法
以前 教会でこんなことがありました
全ての用事が済んで帰ろうと思ったらりゅうくんが見当たらない
普段から どこかに移動するときはどこに行くかをきちんと言うようにお願いをしていたのだけど
流石に何週間も連続して毎週毎週いなくなることにかなりストレスを貯めていました
居るとしたら地下または2階なのですがその日はとても足が痛かったので気を遣わないりゅうくんに対して物凄い イライラしてしまいました
普段なら多少疲れていても探しに行くのですが この日はどうしても探しに行く気になれなかった
更にはどうにも怒りが収まらなかったので廊下の椅子に座って
神様ー!このイライラをどうにかしてください私はこの件についてどういう心でどのように向き合えば良いのですかーっ
と 心の中で叫びました
すると 中のキッチンにいた姉妹が突然 柑橘のフルーツカクテルを「特別ですよ~♪」とわざわざ廊下まで持って来てくれたのです
私が廊下にいることも知らなかったでしょうにものすごーい驚きましたが
神様の解決は 美味しいフルーツを食べて落ち着いて ってことなのね と思わず笑ってしまいました
あまりにも神様がなされたということがわかりやすい出来事だったのでこの件以来 自分の中で迷いが吹っ切れたのですが
どうやら神様は 私に対して美味しいもので喜びを与えたいらしい
ということに気付きました
動いていなかった歯車
とは言え実は 以前は食べ物に対して私の意識は全く逆を向いていました
独り暮らしをしていた10年間ぐらいは誕生日にケーキを食べることすらなかったし
二十歳を過ぎて突然 花粉と果物と野菜にアレルギーが出てしまったためクリスチャンになる以前はフルーツを買うことも殆どありませんでした
それが何故か クリスチャンになってから果物が食べたいと思うようになり
クリスチャンになったら花粉症が治ったという姉妹の話を聞いて
私もその証を受け取ります!と宣言したら 本当に花粉症が治って果物や野菜を食べられるようになりました
ところが 思わぬ盲点だったのが
20年近く疎遠だった食べ物なので自分で調理をしようとしてみると全く要領がわからないのです
作る気満々で買ってきたものの包丁を持ったら あれ?どう切るんだこれという世界なのです
神様が介入してくださることなので最終的には何とかなるのですけど
動いていなかった歯車は噛み合うだけではダメで
油を注いだり錆を取ったりときちんと動くようになるまでメンテナンスが必要なんだな
と 思いました
掴み切るまでは試練も起きる
また 婚約式の時は神様に示されてアイシングクッキーを作ったのですが
この時は 野菜や果物を切る以上に葛藤がありました
小麦粉や砂糖は 普段避けている食べ物ですしクッキー作りなんて 多分小学生以来です
練習のために相当量作ったのですけど失敗した時は人に配るわけにもいかず頭を抱えたりすることもありました
また 夏場はすぐ油が溶けてしまい型を抜くのが大変だったので作るのを暫くさぼっていましたが
先日 預言の練習のクラスで神様から 練習に効率を求めないで と釘を刺されてしまいました^^;;;
ええ…確かに 面倒くさいー と思っているところがあるのです
アイシング作るのもすごい大変だし…
それに
食事と違って お菓子というのはあってもなくても良いのだけどあるとちょっと幸せになれるもの
だと思うのです
ですが 確かに言われてみれば
紅茶とスコーンのある生活であるとか中国茶を2時間ぐらいかけて飲む時間というのは私にとって 物凄く大切にしたいもので
そのための器とかも 昔はとても大事にしていたんだよね
なので これは神様が私に捨ててほしくないと思っているアイデンティティで
忙しさを理由に手を抜かないように と示されているのではないかと思っています