必要をご存知の神 – DIARY WITH GOD

2016.11.16

昨日の表題でありテーマでもある「見ないものを熱心に求める」ということを思い巡らせていた時

神様から一つの思いを与えられました

それは

望むことすらも諦めてしまい欲しいと思わないようにするために見ることすら避けた事柄

それを思い起こすこと でした

救いの在処

具体的に何が思い起こされたかの詳細については書きませんが

人の死や 学校や幼稚園からの卒業という環境の変化により失ったもの

協力者の同意が得られなかったもの

追い求めはしたもののどこにも答えがなかったことなどいくつかの事柄に思い当たりました

その中で

追い求めても答えがなかったこと

については 聖書の神様に出逢い全ての解決を得ることが出来ました

だから 私はこの神様は本物だと確信を持ったわけです

私が追い求めていたものというのは今 振り返ってみると罪に対する解決であったと思いますが

当時は何が罪で何が罪でないかをわかっていなかったのでそこまで明確に理解はしていませんでした

他の宗教の在り方をどうこう言うつもりはありませんが

日本神道の神話において障害を持った子どもは川に捨てられましたが

聖書の神様に導かれた人たちは障害を持つ子を 愛の先生であると称していることをよく目にしました

他の宗教では病気を治すために大金を求めますが聖書の神様に導かれた人たちは神の愛を示すために無償で癒しを行います

本物の神はお金を必要とはしないし人には出来ないことを解決することが出来る

それが 私の中の神様に対するイメージでありそれを出来る神様は聖書の神様だけでした

ですが ここまで来る間 あまりにも偽物の神様や神を自称する存在に不愉快な思いをさせられてきたので

物凄く切羽詰まったところまで避け続けていたことは確かです

言うなれば

本物の神様(というか救い)を求めつつも見ないようにしていた と言えます

が これについては成り行きによりしっかりと受け止める場所に導かれました

自分の選択

残る心当たりは2つ

人の死や 学校や幼稚園からの卒業という環境の変化により失ったものと

協力者の同意が得られなかったものです

特に 人の死については私に限らず多くの人が 何らかの形で痛みと向き合う経験をされているでしょう

私の場合の問題は そのことをきっかけに求めることを諦めてしまったことにあります

それは要するに 他の人に対して心を開かないことを決めてしまった

ということです

親身になってくれる人はいたのに手を差し伸べようとしてくれた人はいたのに私はそれらを一切無視してきたのです

それは 決して手に入れてはいけないないものだと自分で決めてしまっていたのです

協力者の同意 についても一緒です

単純な話 協力をしてくれる人と一緒にいることでそれは得られるのに

私はそれを追い求めることをしようとはしませんでした

神様が与えたいもの

ですが 神様が環境を変えられました

神様は 私自身の思いを変えるのではなく私の周りにいる人を変えてしまわれました

自分で自分のことを否定すれば怒られる環境に今身を置いています

自分にとってあまり好きではない自分の特徴も 神様のイメージ通りであると内側からも外側からも示されます

どちらが間違えているのかは明白です自分が考えを改めるしかありません

そういう環境に 私は置かれました

求めてもいないうちから望んでもいないうちから神様は 既に与えてくださっているのです

あとはあなたが心を開くだけなんだよ と示されていることを痛感させられました

聖書に こう書かれている通りです

マタイの福音書6章7-13節また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御吊があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

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