解釈を加えない
神様は それぞれに賜物を与えていて見えるビジョンも人により角度が違う 私が 神様の肩の上に乗せられていつも一緒にいるビジョンを りゅうくんは 神様の耳飾りというビジョンで受け止めた 主観的か客観的か という話でもありますが …念のため再度書きますと 神様は預言者さんを通して私を美しくすると言ってくださったけど美しくしてどうするのかな?と りゅうくんに聞いてもらったら耳飾りにしてくださっていたそうな 私の主観では 肩の上に座ってるだから位置的には大体あってる でも見ている世界観は全く違うわけです りゅうくんが見た耳飾りというビジョンは預言的なビジョンです 神様が どうご覧になっているかというフィルタがかかっていて ここには 解き明かしが必要になります(必要…というか 神様に尋ねればそれ相応に意味を教えてくださる) ですがりゅうくんは最初 耳飾りって 神様の顔を見るときに目に入る位置だけど 意味あるのかな? と 「解釈」をしようとしたので そういうのは自分で解釈せずに神様に聞きなさいーと言いました そもそも目の前に本人(神)がいるのになぜ解釈しちゃうのか… もし自分がそうされたら何で無視するかないつになったらこっち見てくれるかなって待つしかなくなるでしょう? 解き明かし というのは神様から答えを頂くことであり人が想像や解釈で言うことじゃない しかし 聖書を見ても 弟子たちがよくイエスさまの言うことについて互いに論じあっては イエスさまに何を論じあっているのですか とばっさり切られるシーンが出てきます なので 人というのはそういうものなんでしょうけど しかし福音書の使徒や弟子たちは聖霊を受ける前だったので 折角聖霊を頂いたのだからもっと親しく交わりたいものです とは言え そっかー 耳飾りかー( ・∇・) んじゃ神様は私がこしょこしょ言ってることもぜーんぶ聞かれるからそんな細かいところまでーって小さな願いも叶えてくださるのねー それに 神様の耳の近くにいるなら言葉にも気を付けなくちゃね♪ という感じで それ以上深く突っ込みもしない私と自分の考えながらも深みを求めるりゅうくん どちらがみこころなのかと比較することも出来ない どちらも神様のイメージ通りに造られ 補いあうべくひとつにされたのでしょうね ちなみに 耳飾りである意味について 「自分が発した言葉を最初に聞くのは(相手の耳元で囁かない限りは)自分の耳」 といったニュアンスのことを示されたそうです そして 神様が何かを言うと耳飾り(私)が光ったらしい 一番近くで 素早く反応する子と いう感じなんですかねー 神様 何か言って言って!お話しして 何言いたいか教えて~♪ と いう感じで神様に気持ちを向けているのは確かかもしれません 加えて 私の発する言葉については私が聞くよりも神様の方が先に聞く ということになります その上で 我慢したり躊躇したりせずにきちんと言いなさい がんばれー と 言われていると思うとなんか複雑な気分ですが… それについては 神学校が始まるときに頂いた預言 あなたの人に対して実感する思いやりやあわれみの心を 神様は癒しや奇跡という喜びをもって現したいと願っておられる というのがそのまんま形になっている…というか 思いやりやあわれみの心を伝えても伝えても誰もわかってくれず いい加減にしろー!と叫ぶと奇跡が起こるということからもよーくわかります… なんか 複雑ですけどもっ ともあれ りゅうくんの解釈は間違えていましたけど それをきっかけに より深い解き明かしが頂けて そのことで 私は 神様から見た私というアイデンティティをより強く持つことが出来て恵まれました 最近 私は神様からりゅうくんのサポート とりなし手としての意識をもっと持つように そのことにだけ意識を払うように示されているのですけど 私とりゅうくんは 賜物が違うけどひとつになることで機能するもの なんでしょうね りゅうくんをつつき脱線しないように道を整えりゅうくんだけが受け取れる恵みを受けるようにサポートする それが私のお仕事ですって( ・∇・)♪ 神様はりゅうくんを通してたくさんの恵みを周りに流したいと思われているのだろうなぁと思います